氏綱の擁立
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天文7年(1538年)10月、細川高国の後継者を自任する細川氏綱を擁し、細川国慶が宇治で蜂起する。それと同時に国貞も丹波で兵を挙げたが、翌11月、晴元方の攻撃を受け、籠城していた八木城を追われた。 天文14年(1545年)3月、丹波北西の佐治(兵庫県丹波市青垣町佐治)から丹波に入った国貞は、丹波を通り抜け関城(京都府南丹市日吉町の旧世木村)へと入城する。同年4月に山城国へ侵攻した細川国慶に連動したものだったが、国慶の軍勢は5月には鎮圧され、国貞の籠る関城も晴元方の三好長慶と波多野秀忠に攻められ、7月に落城した。 天文15年(1546年)9月、河内国を支配する遊佐長教の支援を受けて国慶が上洛を果たし、それと連動して、10月に国貞が丹波に入った。翌天文16年(1547年)閏7月、晴元方の攻撃を受けた国慶は丹波へ落ち延び、内藤勢と合流したが、晴元方の追討を受けて敗北。同年10月、国慶は京都近郊で戦い討死した。 天文17年(1548年)、三好長慶が晴元を見限り、氏綱方へと転じる。翌天文18年(1549年)、長慶は江口の戦いに勝利し、氏綱と長慶は京都周辺の実権を握ることになる。これにより細川京兆家当主の氏綱を、摂津守護代である三好長慶や他の守護代らが支える体制が成立し、丹波守護代の国貞は長慶と対等な立場となっていた。 天文21年(1552年)10月、国貞は丹波桑田郡で晴元方牢人衆との合戦を続けている。天文22年(1553年)9月、三好長慶の家臣である松永久秀・長頼兄弟が、晴元方の波多野氏を攻めるため丹波に侵攻する。国貞もそれに加わり、波多野元秀の一族・波多野秀親の数掛山城(亀岡市)を攻めたが、晴元方の援軍の三好宗渭・香西元成の攻撃を受け討死した。この時、守護代の権限を譲りつつあった嫡男の永貞も戦死している。 国貞期の内藤氏について、天文3年(1534年)から5年(1536年)以降、八木城主として自立化を進めていったとの見方がある。これは国貞が細川氏から離反する様子が度々見られたことによるが、天文7年(1538年)の挙兵以降、国貞は細川氏綱の有力内衆として、一貫して氏綱を支えていたとも指摘される。
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