氏綱の擁立とは? わかりやすく解説

氏綱の擁立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 22:55 UTC 版)

内藤国貞」の記事における「氏綱の擁立」の解説

天文7年1538年10月細川高国後継者自任する細川氏綱擁し細川国慶宇治蜂起する。それと同時に国貞丹波兵を挙げたが、翌11月晴元方の攻撃を受け、籠城していた八木城追われた。 天文14年1545年3月丹波北西佐治兵庫県丹波市青垣町佐治)から丹波入った国貞は、丹波通り抜け関城京都府南丹市日吉町の旧世木村)へと入城する。同年4月山城国侵攻した細川国慶連動したのだったが、国慶の軍勢5月には鎮圧され国貞籠る関城晴元方の三好長慶波多野秀忠攻められ7月落城した。 天文15年1546年9月河内国支配する遊佐長教支援受けて国慶が上洛果たし、それと連動して10月国貞丹波入った。翌天文16年1547年)閏7月晴元方の攻撃受けた国慶は丹波落ち延び内藤勢と合流したが、晴元方の追討受けて敗北同年10月、国慶は京都近郊戦い討死した。 天文17年1548年)、三好長慶晴元見限り、氏綱方へと転じる。翌天文18年1549年)、長慶江口の戦い勝利し、氏綱と長慶京都周辺実権握ることになる。これにより細川京兆家当主の氏綱を、摂津守護代である三好長慶や他の守護代らが支え体制成立し丹波守護代国貞長慶対等な立場となっていた。 天文21年1552年10月国貞丹波桑田郡晴元牢人衆との合戦続けている。天文22年1553年9月三好長慶家臣である松永久秀・長頼兄弟が、晴元方の波多野氏攻めるため丹波侵攻する。国貞もそれに加わり波多野元秀一族波多野秀親数掛山城亀岡市)を攻めたが、晴元方の援軍三好宗渭香西元成攻撃を受け討死した。この時、守護代権限譲りつつあった嫡男永貞戦死している。 国貞期の内藤氏について、天文3年1534年)から5年1536年以降八木城主として自立化進めていったとの見方がある。これは国貞細川氏から離反する様子が度々見られことによるが、天文7年1538年)の挙兵以降国貞細川氏綱の有力内衆として、一貫して氏綱を支えていたとも指摘される

※この「氏綱の擁立」の解説は、「内藤国貞」の解説の一部です。
「氏綱の擁立」を含む「内藤国貞」の記事については、「内藤国貞」の概要を参照ください。

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