氏郷の会津若松時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:50 UTC 版)
天正18年(1590年)に氏郷が伊勢から陸奥会津42万石に加増転封されると行春は南山城代となり6300石を領し、蒲生家が92万石に加増されると行春の所領も1万石に加増された。南山城時代には南山城の改修を行っている。 氏郷が死去し、後を継いだ秀行が宇都宮18万石に減封になった後も引き続き仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に秀行が会津60万石に復した際には再び南山城代6000石の領主となった。しかしながら慶長14年(1609年)に蒲生家中で蒲生郷成と岡重政が対立して、郷成が重政の専横に怒り出奔することになった時には行春も蒲生家を去った。
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