氏長者継承まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 16:56 UTC 版)
父・泰長は永久2年(1114年)以来、従四位下陰陽頭の官位にあったが、保安2年(1121年)に54歳で病死する。兄・政文が家を継ぎ陰陽権博士となるが、天治元年(1124年)に急逝し、安倍氏嫡流は断絶の危機に至った。このため、朝廷では当時15歳であった政文の弟を後継とすることにし、庶流の安倍兼時(後に晴道)を後見にすることとした。兼時は政文の弟を元服させて「泰親」と名乗らせ、陰陽道を教授した。 大治5年(1130年)、泰親は右京亮に任じられ、天承元年(1131年)には早くも鳥羽上皇・美福門院に召し出されるなど、陰陽師として独り立ちしていく。しかし、その翌年に陰陽師を継ぐことができなかった政文の遺児が安倍晴明以来の土御門邸を売却、この情報を聞きつけた安倍晴道が買い取ろうとしたことから、泰親が異論を挟んで晴道と相論を行う。当時、晴道は地位こそ低かったものの、泰親を育てた実績から安倍氏の氏長者としての立場が認められており、土御門邸の獲得はそれを名実ともにするものであった。一方これを否認する泰親が嫡流の地位を守るためにかつての師と全面対決するに至ったのである。泰親はその後主計助・雅楽頭・権陰陽博士を歴任したことが知られ、仁平3年(1153年)、晴道が没すると泰親は天文権博士に任ぜられ、氏長者の地位を回復させた。保元2年(1157年)に陰陽助に任ぜられた。
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