三好長慶の寵臣時代とは? わかりやすく解説

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三好長慶の寵臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:16 UTC 版)

松永久秀」の記事における「三好長慶の寵臣時代」の解説

天文18年1549年)、三好長慶細川晴元室町幕府13代将軍・足義輝らを近江国追放して京都支配すると、公家寺社三好家折衝する際にその仲介をする役割を、三好長逸と共に果たすようになった例えば、同年公家山科言継今村慶満から所領利益押領されたため、これを回復する為に長慶らと交渉開始するが、その際に度々交渉先の相手として久秀が登場している。同年12月には久秀は本願寺証如から贈り物受けている。 久秀は長慶に従って上洛三好家家宰となり、弾正忠任官し弾正忠唐名である「霜台」(そうだい)を称する霜台称したのは永禄3年1560年)からともされる)。 上洛後しばらくは他の有力部と共に京都防衛外敵掃討役目任され天文20年1551年7月14日には等持院攻め込んできた細川晴元方の三好政勝(宗渭)、香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打ち破っている(相国寺の戦い)。しかし、この戦で両軍放火為に相国寺塔頭伽藍など灰燼に帰してしまう。長慶従い幕政にも関与するようになり、長慶畿内平定し天文22年1553年)に摂津滝山城主に任ぜられる(弘治2年1556年7月とも)。同年9月には長頼と共に丹波国波多野秀親籠る数掛山城攻めるが、波多野氏援軍訪れた三好政勝香西元成背後から奇襲を受け惨敗喫する。この戦いで味方内藤国貞戦死遂げ内藤家混乱生じる。その後は長頼が国貞遺子である千勝の後見人をするという形式内藤家継承丹波平定進めていった。 天文24年1555年)、久秀は六角義賢家臣永原重興送った書状の中で、将軍義輝を「悪巧みをして長慶との約束何度も反故にして細川晴元結託しているから京都追放されるのは『天罰』である」と弾劾している。また長慶書状併せて送り長慶天下静謐願っていることを伝えている。弘治2年1556年)、奉行衆任じられ6月には長慶と共に堺で三好元長二十回忌参加している。同年7月、久秀の居城滝山城へ、長慶御成し、歓待された。久秀が千句連歌で、そして観世元忠の能で長慶もてなした永禄元年1558年5月足利義輝細川晴元近江国から進軍し京都郊外東山窺うと、久秀は吉祥院布陣し、弟の長頼、三好一門衆の三好長逸伊勢貞孝公家高倉永相と共に洛中突入して威嚇行動行ったのち、将軍山城如意ヶ嶽幕府軍と交戦し、11月和睦成立する摂津国戻った北白川の戦い)。 永禄2年1559年3月三好長慶鞍馬寺花見開催するこの際、久秀も谷宗養三好義興寺町通昭、斎藤基速、立入宗継細川藤賢と共に参加している。また同年部下楠木正虎楠木正成の子孫)が、北朝から朝敵として扱われているが、これを赦免して欲しいと前から願っており、久秀はこれを聞き入れて正親町天皇赦免許可して欲しいと交渉している。正虎は赦免された上に河内守にも任官された。この交渉とそれにおける楠木氏朝敵赦免には足利義輝関与しており、彼も赦免同意し許可した。しかし、義輝にとって足利家仇敵であり敵対した南朝中心人物である楠木氏赦免することは内心とても不愉快であったろうし、強い危機感抱いた違いないという指摘もある。 久秀は同年5月河内国遠征従軍し戦後長慶命令受けて残党狩り口実8月6日大和国入り1日筒井順慶本拠筒井城陥落させ追い払った次に平群谷を焼き筒井方の十市氏を破った永禄3年1560年)には興福寺破って大和一国統一する一方長慶嫡男三好義興と共に将軍義輝から御供衆任じられ1月20日弾正少弼任官6月から10月までの長慶再度河内遠征では大和国残り7月から11月にかけて大和北部平定し三好家中の有力部将として台頭していった。そして同年11月滝山城から大和北西信貴山城移って居城とする。やがて信貴山城天守造営した永禄4年1561年2月4日従四位下に昇叙されると、それまで称していた藤原氏から源氏称するようになった。また2月1日には義輝から桐紋塗輿使用許された(『歴名土代』『御湯殿上日記』『伊勢貞助記』)が、これは長慶父子同等待遇であり、既にこの頃には幕府から主君長慶拮抗する程の勢力有する存在として見られていた事がわかる。義輝参内などをする際、久秀は義興と共に幕臣として随行しており、また義輝元に出仕して仕事を行う頻度増えてゆく。この御供衆任命が、久秀の政治生命人生における一つ分水嶺とも解釈され、久秀と義輝関与する史料がこれ以降増加する長慶には多く被官がいたが、ここまで出世遂げたのは久秀一人である。 この頃、久秀は長慶と「相住」(同居)の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶側近として特に重用されていた。同年からは六角氏への対応のため、三好軍の主力率いてしばしば交戦している。 永禄4年1561年3月将軍義輝三好義興邸宅御成し、歓待を受ける。ここで久秀は、義輝太刀献上したり、義輝側近達を接待したりするなど、三好家人間として義輝達を接待する一方で具足進上義輝達への食事配膳食事中義輝に酒を注ぐなど、御供衆仕事務めている。またこの将軍御成宴席では猿楽催されたが、久秀はその際お膳を運ぶ仕事をしている。これは義輝歓待する三好一族と、義輝側近のみが許可され仕事であり、三好一門ではない久秀は御供衆としてこの仕事行った推測される

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