三好長慶の台頭と細川政権の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:40 UTC 版)
「細川政権 (戦国時代)」の記事における「三好長慶の台頭と細川政権の崩壊」の解説
「三好政権」を参照 天文2年(1533年)、かつての高国陣営は高国の実弟である細川晴国を擁して挙兵をした。しかし、晴国は本来は高国に代わってその実家である野州家(当時は房州家とも称した)を継ぐ存在であり、京兆家の後継者として典厩家から高国の養子に迎えられ、かつ年長でもあった細川氏綱を支持する勢力からは協力を得られず、3年後に晴国が敗死したことで一旦は晴元の体制は安定化した。 天文11年(1543年)に今度は細川氏綱が挙兵したことにより、再び細川家の内紛が再燃した。この時、元長の子・三好長慶が晴元の家臣として頭角を現し、晴元は氏綱を圧倒する。しかし天文17年(1548年)、長慶が氏綱側に寝返ったため、一転して晴元側が不利となり、天文18年(1549年)には江口の戦いで長慶に敗れて政長を討ち取られた晴元は義晴・義輝父子と共に近江に逃亡した。氏綱は管領となるも長慶の傀儡にすぎず(前述のように氏綱の管領就任も晴元同様史実ではないとする説もある)、晴元の敗北により細川政権は終焉し、長慶による下克上によって新たに三好政権が成立したのである。三好政権は依然として将軍・管領といった上位権力を擁してはいたが、その意思(上意)からは自由に行動しており、細川政権とは性格が異なるものであった。その一方で、これまで三好氏の家臣と考えられていた人物の何人かが長慶に付けられた氏綱の家臣であることが判明したり、丹波守護代の内藤国貞が最後まで氏綱を支援していたりすることから、国貞が死去する天文22年(1553年)頃までは実質権力を有しており、その後も長慶に権力を委ねつつも摂津の旗頭としての立場を守ったとする見解も出されている。
※この「三好長慶の台頭と細川政権の崩壊」の解説は、「細川政権 (戦国時代)」の解説の一部です。
「三好長慶の台頭と細川政権の崩壊」を含む「細川政権 (戦国時代)」の記事については、「細川政権 (戦国時代)」の概要を参照ください。
- 三好長慶の台頭と細川政権の崩壊のページへのリンク