三好長慶との対立
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父三好政長、弟為三とともに細川晴元に仕える。天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっている。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主・三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた居城の摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して江口の戦いで長慶に討たれると榎並城から逃亡した。 戦後、細川晴元が13代将軍・足利義輝と共に京都から近江国へ逃亡すると、讃岐国の香西元成や丹波国の波多野元秀と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退。7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将・松永久秀、長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主・内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されて逃亡する。
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三好長慶との対立
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天文17年(1548年)4月、定頼は大和に入り、氏綱派の遊佐長教と面会し、晴元派と氏綱派の和解を取り付けた。これにより、細川一門の騒擾は収まり、畿内の政情も安定した。そのため、6月17日に義藤と義晴は坂本から京へと戻り、今出川御所に入った。 8月12日、長慶は晴元の側近らに対して、政長・政生父子の誅罰を求めた書状を送った。長慶は晴元に兵を向けることを憚り、政長・政生父子の討伐を大義名分に挙兵する形となったが、晴元はこれに反発し、長慶の三弟・十河一存の切り崩しを図ったが失敗した。 9月、長慶は軍事行動を開始し、氏綱方の遊佐長教に父子の思いを成し、一味する旨の起請文を送った。『細川両家記』には、長慶が自身の訴えを無視して政長・政生父子を成敗しない晴元に激怒し、氏綱を京兆家の家督に据えることを決意し、長教に相談した旨が記されている。そして、長慶と三人の兄弟は晴元から離反し、氏綱の陣営に与したが、そこには畿内近国の守護代や国人が揃って味方した。 天文18年(1549年)5月28日、晴元が三宅城に入り、6月17日には政長が摂津江口に陣を敷いた。長慶は好機とみて、三宅城と江口の連絡を遮断するため、安宅冬康や十河一存に江口を包囲させた。 6月24日、長慶と長教の軍勢は江口を攻め、戦いに勝利した。これにより、政長や晴元の側近らが大勢討ち死にした。政生は榎並城を捨てて逃げ、山崎まで到達していた六角勢も退却した。晴元もまた三宅城を脱出し、京に戻った。 同月28日、義晴は晴元に伴われ、義藤をはじめ、近衛稙家、久我晴通などの公家衆、細川元常らをとともに、近江坂本の常在寺に入った。その後、彼らと入れ替わる形で、7月9日に三好長慶が氏綱を奉じて上洛した。 長慶は義晴と晴元を京より追い払ったものの、摂津では伊丹親興が抵抗を続けたため、こちらとの戦闘に注力した。その間、12月12日には氏綱の命令と称して、堺を除く摂津欠郡に徳政を出すなど、長慶は摂津での支配を固めた。
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