三好長慶の覇権(天文年間)
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「戦国時代 (日本)」の記事における「三好長慶の覇権(天文年間)」の解説
「三好政権」を参照 高国政権と堺公方府の崩壊を経て細川晴元は政権を獲得した。しかし足利義晴は享禄年間以降、内談衆を組織して親政政治を開始しており、細川氏の抗争に対して中立の立場をとるようになっていた。また近江の六角定頼が政権内で発言力を高めており、幕府内での晴元の存在感は希薄であった。 天文年間の動乱は畿内の細川京兆家と、中国地方の大内氏と尼子氏の抗争が連動しながら展開していった。晴元は大内義隆と提携し(永正年間には細川高国と共に義稙政権を支えていた大内氏だが、大永3年(1523年)に起こった寧波の乱によりその関係は決裂していた)、六角定頼・山名祐豊・赤松晴政・土佐一条氏も晴元‐大内陣営に参画。一方、高国後継を称する細川氏綱による氏綱派は畠山稙長・尼子晴久・安芸武田氏・若狭武田氏・因幡・山名氏・河野氏・香宗我部氏が連携して晴元-大内陣営に対抗し、畿内・近国のみならず西国をも含んだ動乱に発展した。 天文7年(1538年)、旧高国派による反抗作戦が現出し始めた。畠山尚順の後継者である畠山稙長と山陰の尼子晴久が、将軍・高国系細川氏・本願寺と連携し上洛戦を計画。畿内でも旧高国派による攻撃が丹波と山城国の宇治で起こった。天文12年(1544年)には細川尹賢の子である細川氏綱が和泉で挙兵。天文16年(1547年)に行われた舎利寺の戦いでは敗北したものの、翌天文17年(1548年)に晴元方の有力武将・三好長慶が氏綱方に転向し、氏綱派の主力として晴元に対抗した。 長慶勢は天文18年(1549年)の江口の戦いで晴元方を破り、晴元は義晴の嫡男で12代将軍に補任されていた足利義輝(義藤→義輝。以下義輝に統一)と共に近江に没落した。長慶は当初、京兆家家督を継承した氏綱を推戴したが、その後自ら政治を主導するようになった。中国地方では天文20年(1551年)に晴元派の大内義隆が家臣の陶晴賢に攻められ自害した一方、氏綱派の尼子晴久は8ヵ国の守護に補任され中国地方最大の大名に成長した。翌天文21年(1552年)には、将軍・義輝が長慶と和睦が成り帰洛した。しかし、それに反発した細川晴元は出奔し、なおも長慶に対して抵抗を続けた。また一度は長慶と和睦した義輝も翌天文22年(1553年)には再び対立し、義輝は晴元と共に東山霊山城に入城して長慶に対抗したが、敗れて再度近江に滞在することになった。 戦国史の研究では、16世紀半ばにそれ以前と以降で段階差が存在すると指摘されている。16世紀前半までは一国公権を持つ守護大名の全盛期であり、戦国時代とは言いながらも国ごとの纏まりは簡単に崩せないという常識が存在し、それぞれが互いの地域の秩序を認め合っていた。また戦国期においても、この時期までは幕府が地方の有力大名に賦課する一国平均役も存続していた。しかしこれ以降は、それまでと違い近隣の国々への出兵と領土拡大、奴隷狩りや略奪などを行う侵略的な大名たちが現れるようになっていった。
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