三好長慶の覇権とは? わかりやすく解説

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三好長慶の覇権(天文年間)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:25 UTC 版)

戦国時代 (日本)」の記事における「三好長慶の覇権(天文年間)」の解説

三好政権」を参照 高国政権堺公方府の崩壊経て細川晴元政権獲得した。しかし足利義晴享禄年間以降内談衆組織して親政政治開始しており、細川氏抗争に対して中立立場をとるようになっていた。また近江六角定頼政権内で発言力高めており、幕府内での晴元存在感希薄であった天文年間動乱畿内細川京兆家と、中国地方大内氏尼子氏抗争連動しながら展開していった。晴元大内義隆提携し永正年間には細川高国と共に義稙政権支えていた大内氏だが、大永3年1523年)に起こった寧波の乱によりその関係は決裂していた)、六角定頼山名祐豊赤松晴政土佐一条氏晴元大内陣営参画一方高国後継称する細川氏綱による氏綱派は畠山稙長尼子晴久安芸武田氏若狭武田氏因幡・山名氏・河野氏香宗我部氏連携して晴元-大内陣営対抗し畿内・近国のみならず西国をも含んだ動乱発展した天文7年1538年)、旧高国派による反抗作戦現出し始めた畠山尚順後継者である畠山稙長山陰尼子晴久が、将軍高国細川氏本願寺連携し上洛戦を計画畿内でも旧高国派による攻撃丹波山城国宇治起こった天文12年1544年)には細川尹賢の子である細川氏綱和泉挙兵天文16年1547年)に行われた舎利寺の戦いでは敗北したものの、翌天文17年1548年)に晴元方の有力武将・三好長慶が氏綱方に転向し、氏綱派の主力として晴元対抗した長慶勢は天文18年1549年)の江口の戦い晴元方を破り晴元義晴嫡男12代将軍に補任されていた足利義輝(義義輝。以下義輝統一と共に近江没落した長慶当初京兆家家督継承した氏綱を推戴したが、その後自ら政治主導するようになった中国地方では天文20年1551年)に晴元派の大内義隆家臣陶晴賢攻められ自害した一方、氏綱派の尼子晴久は8ヵ国の守護に補任され中国地方最大大名成長した。翌天文21年1552年)には、将軍義輝長慶和睦成り帰洛した。しかし、それに反発した細川晴元出奔し、なおも長慶に対して抵抗続けた。また一度長慶和睦した義輝も翌天文22年1553年)には再び対立し義輝晴元と共に東山霊山城入城し長慶対抗したが、敗れて再度近江滞在することになった戦国史研究では、16世紀半ばそれ以前以降段階差が存在する指摘されている。16世紀前半までは一国公権を持つ守護大名全盛期であり、戦国時代とは言いながら国ごと纏まり簡単に崩せないという常識存在しそれぞれ互い地域秩序認め合っていた。また戦国期においても、この時期までは幕府地方の有力大名賦課する一国平均役存続していた。しかしこれ以降は、それまで違い近隣国々への出兵領土拡大奴隷狩り略奪などを行う侵略的な大名たちが現れるようになっていった。

※この「三好長慶の覇権(天文年間)」の解説は、「戦国時代 (日本)」の解説の一部です。
「三好長慶の覇権(天文年間)」を含む「戦国時代 (日本)」の記事については、「戦国時代 (日本)」の概要を参照ください。

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