畿内近国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:25 UTC 版)
詳細は「畿内・近国の戦国時代」を参照 初期の畿内においては、足利将軍家と管領の細川氏との抗争が繰り広げられた。山城国一揆などの国人一揆も抗争のパーツとして結果的に組み込まれている。ただし、この抗争は大内氏などを主体とする地方勢力が足利氏を利用して中央介入を試みた側面が強い。細川氏が内部の権力闘争により弱体化すると、足利氏を補佐するという名目で、近江国の六角氏による介入が強まった。近江においては、佐々木氏の一族である北近江の京極氏と南近江の六角氏が覇を競ったが、京極氏は支配下にあった国人の浅井氏によって実権を奪われ、以後は浅井氏と六角氏の争いが続いた。 基本的には、各国とも室町幕府の定めた守護大名が、そのまま戦国大名化したケースが多い。彼らは国人の推戴によってその地位が保たれたから、非常に弱い立場でしかなかった。河内国の畠山氏、但馬国の山名氏、丹後国の一色氏、若狭国の武田氏などは周辺の諸勢力に国を奪われかけたり家臣の内紛に悩まされながら、しぶとく戦国時代を生き抜いた。 伊賀国は忍者に代表される豪族が力を持ち合議制で支配されていた他、北部を六角氏、南部を北畠氏がゆるく支配していた。 紀伊国では高野山・根来寺・熊野三山などの寺社勢力の力が強く、守護畠山氏の支配力は限定的だった。紀伊の地侍は連合して根来衆・雑賀衆などの集団を形成し、宗教を盾に地域自治を行った。 伊勢国・志摩国では、南朝以来の伊勢国司である北畠氏が勢力を誇り、北畠晴具の代に戦国大名化した。 先に述べた足利氏や細川氏の内紛は六角氏や赤松氏・浦上氏・畠山氏・筒井氏など周辺の豪族を巻き込んで行われた。しかし、本格的な騒乱は三好氏の政権掌握以降となる。彼らは領国の阿波国を始め、讃岐国、淡路国、摂津国、和泉国、河内国、山城国、丹波国、大和国などを実力で支配し、それぞれ腹心をして支配した。しかしいずれの国も完全な統治はできなかったようであり、三好長慶の死後の混乱を経て織田信長の上洛軍によって平定されていくことになる。
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