畿内進出とは? わかりやすく解説

畿内進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 03:56 UTC 版)

三好政権」の記事における「畿内進出」の解説

三好氏信濃守護である小笠原氏流れを汲む一族で、阿波三好郡本拠とし、阿波守護細川氏分家阿波細川家代々仕え四国勢率いて管領細川高国破り両細川の乱)、細川政権支えたが、天文元年1532年)、三好氏当主三好元長は、同族三好政長讒言により主君細川晴元誅殺された。 三好宗家は元長の嫡男である三好長慶が継ぐことは許されたが、長慶10歳という幼少のためか三好氏一時的に後退した室町幕府11代将軍・足利義澄の末裔である足利義維享禄・天文の乱混乱乗じた晴元らにより阿波移され阿波公方)、足利義晴和睦した晴元政権握り晴元側近として政長・木長政らが台頭した。しかし長慶は後に、これまでの本拠地であった阿波国弟たち任せて三好宗家本拠地摂津国越水城に移す決断をする(その後長慶最後まで四国に戻ることはなかった)。 長慶晴元家臣として木沢長政討伐をはじめ(太平寺の戦い)、細川高国の跡を継いだ細川氏綱遊佐長教河内)らとの舎利寺の戦い多く武功発揮し摂津守護代として晴元配下最有力重臣にまで成長した。そして天文17年1548年)に長慶遊佐長教和睦してその娘を正室迎え同時に細川氏綱和睦し主君であり仇でもある晴元反旗を翻した天文18年1549年)、江口の戦いにおいて晴元・政長と戦い長慶勝利した。政長は戦死し晴元彼に擁立されていた12代将軍足義晴13代将軍足義輝近江逃亡した長慶細川氏綱と共に上洛して京の支配権握った。しかし氏綱は長慶傀儡でしかなく、細川政元以来細川政権実質的に崩壊し三好政権成立した。ただし、三好政権支え三好氏被官考えられていた人物の何人かは実は氏綱から長慶に付けられた与力であったことが判明するなど、この段階では氏綱・長慶共同統治実態であったとする見方もある。

※この「畿内進出」の解説は、「三好政権」の解説の一部です。
「畿内進出」を含む「三好政権」の記事については、「三好政権」の概要を参照ください。

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