畿内退去後とは? わかりやすく解説

畿内退去後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 07:11 UTC 版)

三好長逸」の記事における「畿内退去後」の解説

永禄12年1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正細川藤孝三好義継らの軍勢桂川迎撃したが激戦の末に敗北桂川の戦い)、これにより三人衆勢力本国阿波まで後退してしまう。 元亀元年1570年)、長逸は篠原長房と共に四国における三好軍をまとめあげ再度反攻図った6月摂津池田城謀反起こして城主池田勝正追放した荒木村重池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた野田城・福島城の戦い)。織田側が戦い有利に進めるが、摂津本拠をもつ石山本願寺突如織田軍を攻撃石山合戦勃発)。三好軍は紀州や一一揆参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政朝倉義景連合軍の攻勢助けられ一時的に織田軍を摂津河内から駆逐する成果上げた。だが三好軍にも追撃余力はなく、11月には反織田諸勢力と共に信長との間に和議結ばれている。 この和議翌年早くも破られ三人衆摂津河内拠点石山本願寺連携しつつ信長包囲網一角担った。しかし、本国阿波三好長治篠原長房殺害し家中不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年7月28日天正改元1573年)、足利義昭自身決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田一致した。だが同年武田信玄病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内反織田勢力一気瓦解突き進む義昭畿内から追放三人衆1人岩成友通淀城戦死浅井長政朝倉義景織田軍に討たれた。 長逸については、摂津中嶋城にて信長派遣してきた軍勢戦い敗北して城を逃れたのが確認できる最後事跡である。残存する長逸本人発給文書元亀元年1570年)が最後となる。一説にはこの合戦討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸と息子の生長その後について隠居幽閉説など各種の説が存在するまた、賀茂別雷神社職中算用状』(同社氏人結成した惣の出納に関する算用状)の天正5年9月分に「壱斗 三好日向守殿参、染山神之代」とする記述があり、天正5年1577年)に京都賀茂別雷神社訪問した三好日向守が長逸本人もしくはその後継者であった可能性がある。また、宗渭は行方不明となったとも、永禄12年1569年5月段階死去(『二條宴乗記』)したとも言われ、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ反対に久秀は信長降伏して生き延びた長治阿波内乱敗死、康長を始め他の三好一族は信長臣従討伐され、大名として三好氏勢力消滅した

※この「畿内退去後」の解説は、「三好長逸」の解説の一部です。
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