畿内国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 14:25 UTC 版)
646年(大化2年)に発せられた改新の詔には、「およそ畿内とは、東は名墾(名張)の横河より以来(こちら側)、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石(明石)の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)より以来を、畿内国とす」という畿内の範囲に関する記述がある。ここにいう「畿内」はのちの4、5国をさす畿内ではなく、大和を中心に四囲を示した「畿内国」として定めたと考えられる。このように、畿内の範囲は646年(大化2年)当時皇居が置かれていた難波宮(現在の大阪市)、また、それ以前に難波高津宮、より古くから大王の宮殿の多くが置かれた奈良盆地を基準に決められたと考えられる。 中央集権制の下で、貴族が朝廷の許可もなく、畿内の外に出る事は律令法によって禁じられていたが、794年に山城国の畿内北東端にあたる平安京に遷都されて以後は、平安京から山一つ越えただけの近江国や丹波国へ出る事が禁じられ、平安京から数日かかる和泉や大和南部の方が規制が緩いという矛盾が生じていたという。更に奈良時代の一時期、近江国の紫香楽宮に都が置かれていた時期が、あるがその時期に畿内の概念が変更された形跡が確認できないため(前述の法規との矛盾をどう解決していたかは不明)、早い時期より畿内の根拠として大和朝廷(ヤマト王権)を構成する豪族層の居住地域あるいは朝廷の中核を構成する貴族や官僚の出身地域とする位置づけがなされ、実際の都(京)の所在地との関係性は考慮されなくなったとする見方もある。 なお、江戸幕府の法令で重追放を受けた場合の立入禁止地域には近江・丹波は含まれていなかったが、京都で事件を起こした者に対してのみは例外的にこの両国と河内国も含むこととされている。
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