畿内の覇権をめざしてとは? わかりやすく解説

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畿内の覇権をめざして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:16 UTC 版)

松永久秀」の記事における「畿内の覇権をめざして」の解説

永禄4年1561年11月には三好義興と共に六角義賢京都付近で戦う(将軍地蔵山の戦い)。永禄5年1562年)に三好軍を結集させ河内出陣し5月義賢結んだ河内国畠山高政打ち破り久米田の戦い教興寺の戦い)、紀伊国追放している(6月には義賢和睦)。9月長慶逆らった幕府政所執事伊勢貞孝・貞良父子討伐するなど功績挙げていく。同年大和山城の国付近に多聞山城築城移住し大和国人・十市遠勝降伏させ、永禄6年1563年1月には多武峰衆徒と戦うが苦戦し足利義輝仲介依頼している。この時、和睦仲介していた義輝はそれに応じない多武峰側に不快感示していたという記録(『お湯殿の上日記』)があり、心情的に久秀側擁護回っているとも解釈できる敵対時には久秀が義輝境遇を「天罰」と罵り、また永禄年間曼殊院院との相論巡り義輝と久秀が激しく口論を行う姿が記録される(『左衛門督奉書案』)など、当初険悪な関係にあった思われる両者だが、義興・久秀が幕臣として義輝接す機会増え決して常に対立していた関係ではなかったとも言えるこの年の閏12月14日家督嫡男久通譲った(『厳助往年記』)。 久秀が勢力増加させていく一方で主君三好長慶は弟の十河一存三好実休嫡男三好義興相次ぐ死去などの不幸が重なった一存や義興については久秀による暗殺説もあるが、一存死因落馬、義興は病死とされている。また岩成友通宛てた書状では、義興が病に倒れたことに心を痛め改め三好家忠誠誓い討死せん覚悟があることを伝えている。 永禄7年1564年5月9日三好長慶の弟である安宅冬康死去により、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波国主補佐していた篠原長房のみとなる。7月4日長慶死没すると、しばらくは三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通)らと共に長慶の甥・三好義継担いで三好家支えた永禄8年1565年5月19日息子久通三好義継三好三人衆軍勢率いて上洛し、室町御所足利義輝襲撃し殺害する永禄の変)。この事件は久秀が首謀者のように言われているが、この時期の久秀は京への出仕久通任せ大和国にいることが多く事件当日大和国におり参加していない。また覚慶号し、この当時僧籍入っていた還俗前の足利義昭書状から、久秀は事件直後義昭の命は取るつもりはないと誓詞出しており、実際に興福寺での監禁外出禁止する程度でさほど厳しいものではなかった。義継・久通三人衆襲撃犯義輝の子懐妊していた侍女や弟の周暠殺害したことに比較する温情的処置であり、久秀は義輝殺害に全く関与していなかった、または消極的だったとも言える一方で、久秀は義輝殺害強く反発した形跡見られず、殺害そのもの容認していたのではないかとも推測される。久秀は義輝の死という突発的な状況に、義昭庇護してそれを将軍据え傀儡として操ろうとしていたのではないか、とも言われる。義継は足利将軍家に取って代わろうとして殺害したが、久秀は武家上層家格秩序意識からうまいかない認識して義昭擁護回ったともいう。 久秀は直後キリシタン宣教師追放する。しかし、同年8月2日に弟・長頼が丹波国敗死して三好家丹波国喪失。やがて久秀は畿内主導権をめぐり三人衆対立するようになり、11月16日に義継を担いだ三人衆が久秀と断交両者三好家中を二分して争い、これが内乱幕開けとなった永禄9年1566年)には三好康長安宅信康一門衆三人衆側に加担し三人衆新たに担いだ14代将軍・足利義栄からも討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で孤立してしまう。2月畠山高政安見宗房同盟を結び、根来衆とも連携して義継の居城高屋城攻撃するなど何とか勢力挽回図ろうとするも、三人衆和泉国堺を襲撃2月17日、久秀は畠山とともに三人衆同盟者大和国人・筒井順慶と堺近郊の上で戦うが(上戦い)、両者挟撃を受け松永畠山軍は敗退する。久秀は一旦多聞山城退却して5月再度出陣し、かつての領国摂津味方募り堺で畠山軍と合流した高屋城では三好義継被官である金山氏(金山信貞か)が久秀へ内応を図るが高屋衆に阻止され失敗し高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため久秀は5月30日に堺から逃亡し数ヶ月間行不明となった(『永禄以来年代記』)。高政三人衆和睦し摂津山城の松永方の諸城篠原長房池田勝正などの援軍加えた三人衆次々落とされ留守中の多聞山城久通守っていたが、筒井順慶大和荒らし回るなど劣勢に立たされた。 ところが、永禄10年1567年2月16日に再び金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機勢力盛り返し4月7日に堺から信貴山城復帰した4月18日三人衆大和出陣。久秀は長い対陣の末に10月10日三人衆の陣である東大寺奇襲成功し畿内主導権得た東大寺大仏殿の戦い)。このとき大仏殿焼失し大仏の首も落ちた茶人でもあった久秀は、近辺松屋久政の手貝屋となっていた茶室珠光座敷失われるのを惜しみ進攻先立ち松屋椿井邸宅解体して避難させた(『松屋会記』)。一般的には久秀の命によるとされているが、大仏殿に火を点けたのは誰か(あるいはそもそも放火なのか失火なのか)については諸説ある。松永久秀軍による兵火残り火倉庫燃えつき、そして法華堂から大仏殿回廊にまわり本殿燃え移った失火であると、同日奈良での記録がある(『多聞院日記』)。その一方ルイス・フロイスの『日本史』では、この出火三好方のキリシタン放火によると記述されている。 三好義継2月28日付で南山城国人椿井氏に宛てた書状で、三好三人衆悪逆無道鳴らし、また久秀の三好家対す忠誠心賞し、これを見離せ鞍替えしたと述べている。実際これ以降の久秀の行動は義継とほぼ共にあり、三人衆阿波三好家三好長治)とは激しく対立したものの、やはり三好家当主には忠実だったと言える。 しかし、この時点で久秀に味方したのは畠山高政根来衆箸尾高春一部勢力だけで、四国に強い地盤を持つ阿波三好家篠原長房率い大軍勢を味方につけた三人衆とは大きな勢力開きがあり、三人衆との戦い終始劣勢であった永禄11年1568年になって三人衆は軍を大和駐屯させたまま久秀の監視体制継続6月29日信貴山城三人衆落とされるまでになった信貴山城の戦い)。多聞山城籠城していた久秀が打開策として考えていたのが織田信長の上洛で、永禄9年1566年)の段階で既に信長交信していて、信長大和国人衆に久秀への助力伝えている。

※この「畿内の覇権をめざして」の解説は、「松永久秀」の解説の一部です。
「畿内の覇権をめざして」を含む「松永久秀」の記事については、「松永久秀」の概要を参照ください。

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