畿内から近国まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:02 UTC 版)
首都が飛鳥に置かれた時期には、大和国の宇陀が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、平城京に遷都されると、平城京から平城山を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って伊賀国に入り、鈴鹿山脈と布引山地の鞍部を加太越えで越えて伊勢国へ、木曽三川を下流域で渡って尾張国津島へ、名古屋市を通り、三河国と続いていったと考えられている。およそ、現在の国道163号線・国道25号線・国道1号に沿ったルートであった。 ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは飛鳥や平城京から鈴鹿峠を経由してそのまま伊勢国の港から伊勢湾を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年(646年)3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の不破関に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の七里の渡しや美濃路の原型として考えることもできる。 平安京に遷都されると、起点が平安京に移ったため、伊賀国から、近江国を通るルートに変更されることになる。平安時代初期には現在の杣街道から伊賀国に入る経路がとられたが、886年(仁和2年)に鈴鹿峠を通る経路に変更され、ほぼ現在の国道1号のルートに準ずるようになった。
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