畿内における戦いとは? わかりやすく解説

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畿内における戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:19 UTC 版)

北畠顕家」の記事における「畿内における戦い」の解説

2月4日尊氏の命により、高師泰師冬細川頼春佐々木氏頼高氏らが顕家軍討伐のため京を進撃した2月14日および16日、顕家は北朝軍と伊勢国雲出川及び櫛田川戦ったが、決着はつかなかった。 2月21日、顕家は辰市及び三条口戦って大和占領するが、28日般若坂の戦いで激戦の末に北朝方の桃井直常敗れた。そのため、顕家は義良親王秘かに吉野送った一方河内国退いた顕家は、伊達行朝田村輝定らとともに戦力再建図った。顕家は摂津国天王寺に軍を集結3月8日天王寺の戦い勝利した。 だが、3月13日奥州軍は北朝方と再び天王寺阿倍野及び河内片野(片埜・古名交野とも)で戦い、翌14日天王寺敗れた3月15日に顕家軍は渡辺戦いで勝利したものの、翌16日阿倍野戦い敗れ和泉国転戦した3月21日、軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へ向かった3月22日南朝九州阿蘇惟時出兵要請し、顕家を救援するように命じている。だが、惟時は出兵せず、4月27日南朝は惟時に再度出兵命じている。 5月6日奥州軍は和泉堺浦町屋焼き5月8日には和泉坂本郷並びに観音寺に城構え、翌9日には奥州軍は熊取佐野長滝各地進撃し北朝方の細川顕氏日根野盛治田代基綱ら現地北朝勢力交戦続けたこの間5月10日 に顕家は東国経営の上奏文草した5月15日には再び後醍醐天皇に諫奏文上奏した(『北畠顕家上奏文』)。

※この「畿内における戦い」の解説は、「北畠顕家」の解説の一部です。
「畿内における戦い」を含む「北畠顕家」の記事については、「北畠顕家」の概要を参照ください。

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