湯浅宗貞とは? わかりやすく解説

湯浅宗貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/03 03:41 UTC 版)

 
湯浅宗貞
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 通称:五郎兵衛尉
官位 越前
主君 内藤国貞宗勝(松永長頼)
氏族 丹波湯浅氏
父母 父:湯浅宗福(宗正)
兄弟 宗貞、政常、小林宗成、吉田貞政
貞清、宗清

湯浅 宗貞(ゆあさ むねさだ)は、戦国時代武将丹波国世木城[1]主。

丹波湯浅氏は丹波の国人。中世紀伊国において最大の武士団を率いた湯浅党の一族であり、湯浅宗重の曽孫である宗親の末裔・宗朝が丹波世木郷を領したことに始まる。

宗貞は丹波守護代内藤国貞に従って波多野氏と争っていた。天文22年(1553年)、八上城主・波多野元清が内藤領へ侵攻し、国貞が本梅郷の戦いで討死した。この時、国貞には一子・千勝丸(内藤貞勝)がおり、宗貞は園部城において千勝丸を匿い、松永長頼の援軍が到着するまで持ちこたえた。長頼は八木城を奪取した後、千勝丸の後見を務め、尚且つ、内藤氏の名跡を受け継ぎ、内藤宗勝と改名した。

永禄5年(1562年)、教興寺の戦いにおいて、丹波国人衆の一人として内藤宗勝に従って三好長慶方に属する。対する畠山高政方には同族の湯浅宗政、保田知宗らが属しており、一族で戦うことになったが勝利を収めた。元亀元年(1570年)、突如、世木城主の地位を捨てて帰農した。家督は子[2]・宗清に譲ったという。

脚注

  1. ^ 現・京都府南丹市日吉町
  2. ^ または養子。




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「湯浅宗貞」の関連用語

湯浅宗貞のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



湯浅宗貞のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの湯浅宗貞 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS