内藤ジョアン時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 内藤ジョアン時代の意味・解説 

内藤ジョアン時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:43 UTC 版)

八木城 (丹波国)」の記事における「内藤ジョアン時代」の解説

八木城は、内藤ジョアン内藤如安)の居城として禁教令キリスト弾圧)を受け、後難避けるため史料多く故意書き換えられたり、記録抹殺されてしまったようで、その真偽鮮明にすることが非常に困難となってしまっている。これが有名な城であるが「幻の八木城」と呼ばれる云われで、現在も歴史研究家調査継続されている。 内藤ジョアンの母は、内藤定房(八木玄夫『丹波八木城内藤如安』では、定房は内藤国貞誤記ではないかとしている)の娘でまず近江国浅井氏嫁ぎ一子もうけたが、夫が病死し子を連れて八木城戻ってきた。その子の名は八木玄蕃といい、内藤ジョアン義兄となり後に家老職務めたその後内藤ジョアンの母は細川氏再婚したが、またしても夫と死別し八木城戻ってきた。そのような中、内藤ジョアンの母は松永長頼三度目になる再婚をし、二子もうけた五郎丸後の内藤ジョアンと、妹の内藤ジュリアであったまた、内藤ジョアン松永長頼の「実子又は養嗣子推定されている」と養嗣子可能性示唆されている。 1553年天文22年)頃から八上城城主であった波多野元清勢力拡大していき、丹波国侵し始めた当時八木城城主であった内藤国貞は本梅郷戦いで討死し、八木城立て篭もっていた内藤定房も討ち取り波多野元清軍を前に落城してしまった。この時、内藤国貞実子千勝丸は、湯浅宗貞助け園部城かくまった八木城落城した事に対して怒った松永長頼は、出陣先から引き返し八木城奪還成功したようである。この時の様子が、「松永内藤備前守ガ聟ナレバ城中一入タノモシク思ヒケル落武者カク計リケル事武功第一ナリト沙汰シケル」(『足利季世記』)と記載されている。その時恩賞として将軍から内藤の姓を許され内藤宗勝改名したようである。 一方内藤ジョアンは、山口方面よりお家騒動八木城頼って逃げて来た女性がおり、名をカタリナといい、洗礼名しか判っていないとされている。また、山口起きたお家騒動」とは1551年天文20年)の陶隆房反乱大寧寺の変ではないかとの推察がある。そのカタリナは、五郎丸と妹ジュリアをわが子のように育て五郎丸ジュリアカタリナ影響からキリシタンの道に入っていった。そして永禄8年1565年5月に、京の南蛮寺ルイス・フロイスより洗礼を受け、ジョアンという洗礼名授かったではないか思われている。 そのような中、黒井城城主丹波の赤鬼」と恐れられ赤井直正と、八上城城主波多野秀治代わり丹波国収めよう争乱始めたので、同年8月松永長頼700余り引き連れ出軍した。氷上郡進んだところ、日暮れとなり豪雨となったので近くの寺に宿陣した。しかし、この寺の僧が赤井直正密告し夜中不意の夜襲かけられてしまった。松永長頼700兵を指揮し奮闘した及ばす、ほぼ全員玉砕したようである。内藤ジョアン洗礼受けてから3か月後に父を亡くしたことになる。 父を亡くした内藤ジョアンは、八木城城主収まったようで、八木城中心として布教活動行っていた。そんな中、現在記録明確になっているだけで三度日本人修道士ロレンソ了斎招いたようである。ロレンソ了斎とはルイス・フロイス弟子で、九州から京都にかけて獲得した信者は6千人にものぼったと言われている。八木城には1572年元亀3年)-1573年天正元年)にかけて2回訪問した。この1573年天正元年)の初旬2回目訪問様子ガスパル・ヴィレラ書簡で「パードレ・オルガンチノはロレンソと共に八日三箇より当地着きたり。内藤殿其部下説教を聞かん為め丹波の国に於てロレンソ待ち居れる故に、彼を迎え来たると共に一昨日当地出発せり」と記している。また1574年天正2年3回目訪問様子ルイス・フロイス未刊書簡では、「時にフロイスは、ロレンソとともに都から丹波山道たどった。約二里ところへ内藤ジョアン家臣とともに出迎えた。城には豪華な祭壇飾られていた。八日間七十名の兵が、ついで十四名が受礼した」と記している。八木城丹波国におけるイエズス会布教活動本拠地となりつつあった。 このころより内藤ジョアンこそ城主とすべき派と、内藤国貞実子、千勝丸(後の内藤貞勝)の擁立目指す一派とで内争となったそのような中、内藤定房の兄弟僧侶となっていたが、内藤氏血縁でない松永長頼事あるごとに反抗していたので、内藤ジョアンの母にとっては伯父たちから内藤ジョアン城主になることを諦め、また内藤ジョアンの母もキリシタン改宗するよう迫ったようである。しかし、内藤ジョアンの母は気丈なであったらしく、頑としてこれに応じなかったため、僧侶殺害された。内藤ジョアンは父に次ぎ、母も亡くした。母が殺されたのは1573年天正元年)の秋から暮れにかけてはでないかと推察されている。『日本史』によると、母が亡くなってからの内藤ジョアン城主のことなど一向に気にかけなくなり戦国の世を渡り歩き、ますます信仰の道に深く入っていた、と記載している。 その後内藤ジョアン小西行長客将となり、文禄・慶長の役出兵活躍した。また徳川幕府よりキリシタン禁教令で、高山右近と共にマニラ亡命したマニラでは「生き神」の如き歓待をうけ、地域住民からも慕われたらしく、最後は妻マリア、妹ジュリア子供達地元宣教師修道士に見守れながら昇天したと語られている。73歳であった

※この「内藤ジョアン時代」の解説は、「八木城 (丹波国)」の解説の一部です。
「内藤ジョアン時代」を含む「八木城 (丹波国)」の記事については、「八木城 (丹波国)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「内藤ジョアン時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内藤ジョアン時代」の関連用語

内藤ジョアン時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内藤ジョアン時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの八木城 (丹波国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS