内藤ジョアン時代
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「八木城 (丹波国)」の記事における「内藤ジョアン時代」の解説
八木城は、内藤ジョアン(内藤如安)の居城として禁教令(キリスト弾圧)を受け、後難を避けるため史料の多くが故意に書き換えられたり、記録が抹殺されてしまったようで、その真偽を鮮明にすることが非常に困難となってしまっている。これが有名な城であるが「幻の八木城」と呼ばれる云われで、現在も歴史研究家の調査が継続されている。 内藤ジョアンの母は、内藤定房(八木玄夫『丹波八木城と内藤如安』では、定房は内藤国貞の誤記ではないかとしている)の娘でまず近江国の浅井氏に嫁ぎ一子をもうけたが、夫が病死し子を連れて八木城に戻ってきた。その子の名は八木玄蕃といい、内藤ジョアンの義兄となり後に家老職を務めた。その後内藤ジョアンの母は細川氏と再婚したが、またしても夫と死別し八木城に戻ってきた。そのような中、内藤ジョアンの母は松永長頼と三度目になる再婚をし、二子をもうけた。五郎丸後の内藤ジョアンと、妹の内藤ジュリアであった。また、内藤ジョアンは松永長頼の「実子又は養嗣子と推定されている」と養嗣子の可能性も示唆されている。 1553年(天文22年)頃から八上城の城主であった波多野元清の勢力が拡大していき、丹波国を侵し始めた。当時の八木城の城主であった内藤国貞は本梅郷の戦いで討死し、八木城で立て篭もっていた内藤定房も討ち取り、波多野元清軍を前に落城してしまった。この時、内藤国貞の実子千勝丸は、湯浅宗貞が助け園部城でかくまった。八木城が落城した事に対してに怒った松永長頼は、出陣先から引き返し、八木城の奪還に成功したようである。この時の様子が、「松永ハ内藤備前守ガ聟ナレバ、城中モ一入タノモシク思ヒケル、落武者カク計リケル事武功第一ナリト沙汰シケル」(『足利季世記』)と記載されている。その時の恩賞として将軍から内藤の姓を許され、内藤宗勝と改名したようである。 一方内藤ジョアンは、山口方面よりお家騒動で八木城を頼って逃げて来た女性がおり、名をカタリナといい、洗礼名しか判っていないとされている。また、山口で起きた「お家騒動」とは1551年(天文20年)の陶隆房の反乱(大寧寺の変)ではないかとの推察がある。そのカタリナは、五郎丸と妹ジュリアをわが子のように育て、五郎丸とジュリアもカタリナの影響からキリシタンの道に入っていった。そして永禄8年(1565年)5月に、京の南蛮寺でルイス・フロイスより洗礼を受け、ジョアンという洗礼名を授かったのではないかと思われている。 そのような中、黒井城の城主「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正と、八上城の城主は波多野秀治に代わり、丹波国を収めようと争乱を始めたので、同年8月松永長頼は700兵余りを引き連れ出軍した。氷上郡迄進んだところ、日暮れとなり豪雨となったので近くの寺に宿陣した。しかし、この寺の僧が赤井直正に密告し、夜中不意の夜襲をかけられてしまった。松永長頼も700兵を指揮し奮闘したが及ばす、ほぼ全員が玉砕したようである。内藤ジョアンが洗礼を受けてから3か月後に父を亡くしたことになる。 父を亡くした内藤ジョアンは、八木城の城主に収まったようで、八木城を中心として布教活動を行っていた。そんな中、現在記録が明確になっているだけで三度日本人修道士ロレンソ了斎を招いたようである。ロレンソ了斎とはルイス・フロイスの弟子で、九州から京都にかけて獲得した信者は6千人にものぼったと言われている。八木城には1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけて2回訪問した。この1573年(天正元年)の初旬、2回目の訪問の様子をガスパル・ヴィレラは書簡で「パードレ・オルガンチノはロレンソと共に約八日前三箇より当地に着きたり。内藤殿其部下説教を聞かん為め丹波の国に於てロレンソを待ち居れるが故に、彼を迎えに来たる人と共に一昨日当地を出発せり」と記している。また1574年(天正2年)3回目の訪問の様子をルイス・フロイスの未刊の書簡では、「時にフロイスは、ロレンソとともに都から丹波の山道をたどった。約二里のところへ内藤ジョアンは家臣とともに出迎えた。城には豪華な祭壇が飾られていた。八日間に七十名の兵が、ついで十四名が受礼した」と記している。八木城は丹波国におけるイエズス会布教活動の本拠地となりつつあった。 このころより内藤ジョアンこそ城主とすべき派と、内藤国貞の実子、千勝丸(後の内藤貞勝)の擁立を目指す一派とで内争となった。そのような中、内藤定房の兄弟は僧侶となっていたが、内藤氏の血縁でない松永長頼と事あるごとに反抗していたので、内藤ジョアンの母にとっては伯父たちから、内藤ジョアンを城主になることを諦め、また内藤ジョアンの母もキリシタンに改宗するよう迫ったようである。しかし、内藤ジョアンの母は気丈な方であったらしく、頑としてこれに応じなかったため、僧侶に殺害された。内藤ジョアンは父に次ぎ、母も亡くした。母が殺されたのは1573年(天正元年)の秋から暮れにかけてはでないかと推察されている。『日本史』によると、母が亡くなってからの内藤ジョアンは城主のことなど一向に気にかけなくなり、戦国の世を渡り歩き、ますます信仰の道に深く入っていた、と記載している。 その後、内藤ジョアンは小西行長の客将となり、文禄・慶長の役で出兵し活躍した。また徳川幕府よりキリシタン禁教令で、高山右近と共にマニラに亡命した。マニラでは「生き神」の如き歓待をうけ、地域の住民からも慕われたらしく、最後は妻マリア、妹ジュリアや子供達、地元の宣教師や修道士に見守れながら昇天したと語られている。73歳であった。
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