内藤ジュリアとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 世界宗教用語 > 内藤ジュリアの意味・解説 

ないとうじゅりあ 【内藤ジュリア】

織豊−江戸前期修道女内藤如安の妹。二二歳で寡婦となり仏教比丘尼として豊臣秀吉正室高台院とも交流があった。一五九六慶長一)年頃キリシタンとなり布教従事、ベアタス修道会女子修道会)を創立一六一四年兄と共にマニラ追放されたが、修道生活を続け同地で没。(一五六六頃~一六二七

内藤ジュリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/23 08:53 UTC 版)

内藤 ジュリア
生誕 永禄9年(1566年)頃
洗礼 ジュリア
死没 寛永4年(1627年)2月11日
マニラ
著名な実績 京都で、日本初の女子修道会「ベアタス会」を創立した
父:松永長頼、母:内藤国貞の娘
家族 兄:内藤如安
テンプレートを表示

内藤 ジュリア(ないとう ジュリア、永禄9年(1566年)頃 - 寛永4年2月11日1627年3月28日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性、キリシタン[1]

生涯

父は松永長頼、母は内藤国貞の娘。兄に内藤如安。夫は丹波国人という。1587年に夫は死去したという。一度は仏門に入ったものの、慶長元年(1596年)頃、洗礼を受け、ジュリアと名乗る[1]。大名夫人たちへの布教活動を行い、主な人物としては豪姫を改宗させた[2]。慶長11年(1606年)に日本で初めての女子修道会ベアタス会を京都に設立する[2]

慶長19年(1614年)、禁教政策により兄・如安や高山右近らと共に呂栄(ルソン島)に追放される。配流後も日本女性13人と聖ミカエル会(旧・修道女会)を結成した[3]

寛永4年(1627年)2月11日、死去[3]享年62[1])。

関連作品

脚注

  1. ^ a b c 内藤ジュリア」『朝日日本歴史人物事典、デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E8%97%A4%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2コトバンクより2022年12月3日閲覧 
  2. ^ a b 立石 1988, p. 369.
  3. ^ a b 海老沢 1989, p. 233.

参考文献

  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年。 
  • 松田毅一「丹波八木城と内藤如庵について」『COSMICA』VII、1977年。 
  • 海老沢有道『高山右近』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年(原著1958年)。 
  • 立石定夫『戦国宇喜多一族』新人物往来社、1988年。 
  • 福島克彦 著「丹波内藤氏と内藤ジョアン」、中西裕樹 編『高山右近 キリシタン大名への新視点』宮帯出版社、2014年。 

外部リンク



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内藤ジュリア」の関連用語

内藤ジュリアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内藤ジュリアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの内藤ジュリア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS