織田信長の截香
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『天正二年截香記』によれば、天正2年(1574年)3月23日に、織田信長は塙直政と筒井順慶を使者に出し、蘭奢待拝見の希望を伝えた。東大寺は足利家以外に正倉院宝庫の開封例がないとしつつも、信長の内裏修造などに配慮して勅使によって封が解かれれば聞き入れると返答。勅許を得た信長は多聞山城に入り、勅使が到着を待つ。3月28日に正倉院中倉から黄熟香が城に運ばれ、東大寺僧3人の立会のもと、大仏師トンシキが持参した鋸で1寸角2個を切り取る。信長は「1つは正親町天皇に献上し、もう1つは我等が拝領」と述べた。 信長による截香は横暴なイメージで語られる事が多いが、米田雄介や和田軍一は上記の記述より好意的な評価をしている。そして、金子拓は東大寺側の記録(上生院浄実『三蔵開封日記』・蓮乗院寅清『寺辺之記』・薬師院実祐『三蔵開封之次第』)を検証したところ、信長は先例を確認した上で切り取りを行い、27日には信長自らが東大寺や春日大社を参詣して謝意を示したことを指摘し、信長の申し入れに当初は東大寺側も反発はあったものの、信長の東大寺に対する配慮により平穏に終わったとしている(特に、上生院浄実は前述の切り取りに立ち会った3人の東大寺僧の1人で、『三蔵開封日記』は『天正二年截香記』の原本であることも検証している)。 なお、東山御文庫内には「蘭奢待香開封内奏状案」(勅封三十五函乙-11-15)と呼ばれる文書が伝えられている。この文書は元々、信長の蘭奢待切り取りに先立って空席であった東大寺別当に三条西実枝(実澄)の子を任じた女房奉書とセットになっていたことから、蘭奢待切り取りの許可を求める内奏に対する返事と考えられていた。また、その文章の内容が不満を吐露するものであったため、古くから「信長ノ不法ヲ難詰セラル」(『大日本史料』天正2年3月28日条)と解釈され、長年"正親町天皇が信長の奏請に対する不満を吐露した書状"として理解されてきた。しかし、内奏状は天皇に充てて出される文書であるのに天皇の心境が述べられている矛盾が指摘され、金子拓はこれは女房奉書の受取先であった三条西実枝から正親町天皇に充てられた書状と再解釈した。つまり、この文書の筆者が正親町天皇では無く三条西実枝である以上、不満を吐露したのも天皇ではないことになる。そして、不満の対象も書状の宛先である正親町天皇その人と考えるしか無く、少なくても"正親町天皇が信長の奏請に対する不満を吐露した書状"ではありえないと結論づけている。なお、金子の解釈によれば、「不満」の内容は東大寺は皇室の寺院で正倉院の開封には勅使を使わすのが習いであるのに、藤氏長者の二条晴良と藤原氏の氏寺である興福寺が関与しているのを天皇が止めていないことに対する批判ということになる。 蘭奢待を切り取った信長は、これを周知する目的で4月3日に茶会を催し、その場で千宗易と津田宗及に蘭奢待を下賜している。また、その他に村井貞勝にも下賜したほか、正親町天皇も九条稙通に下賜している。
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