織田信長の上洛と三好政権の崩壊
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「三好政権」の記事における「織田信長の上洛と三好政権の崩壊」の解説
三好政権内部で内紛が続いている中、永禄の変で細川藤孝・一色藤長ら幕臣の援助を受けて逃亡していた足利義昭は、尾張・美濃を領して勢いに乗る織田信長の援助を受け、永禄11年(1568年)9月7日に岐阜城を出立し、上洛戦を開始した。内紛に明け暮れている三好政権は信長の侵攻を食い止めるため、管領職を与えることで六角義賢を味方につけて防衛しようとしたが、義賢は信長の侵攻を受けてあえなく敗れ、9月12日に本拠地の観音寺城が陥落(観音寺城の戦い)。9月25日に織田軍が大津まで進軍すると、三好義継と松永久秀は足利義昭に降り、挟撃を受ける形となった篠原長房と三人衆の軍は崩壊、9月29日に山城勝竜寺城に退却した岩成友通が降伏、9月30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には篠原長房も越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。10月20日に足利義栄が阿波国で病死、さる10月18日義昭が15代将軍に就任し、三好政権は崩壊した。
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