上杉・武田との戦いとは? わかりやすく解説

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上杉・武田との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 03:45 UTC 版)

北条氏政」の記事における「上杉・武田との戦い」の解説

甲相同盟復活後、氏政と謙信戦いが再び始まり天正2年1574年)に謙信上野国進出すると氏政も出陣し利根川対陣した。しかし謙信関心は既に越中国向けられており、決戦には至らなかった。閏11月には父が「一国等しい城」とまで称した簗田晴助関宿城攻め落とし、翌天正3年1575年)には小山秀綱下野祇園城攻め落とした。更に下総国結城晴朝恭順するなど氏政の勢力拡大してゆき、上杉派の勢力関東からほぼ一掃した天正5年1577年)には上総国侵攻し宿敵里見義弘との和睦実現した房相一和)。なおこの戦いにおいて嫡男・氏直が初陣している。 天正6年1578年)に謙信死去すると、その後継者をめぐって謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信養子上杉景虎の間で後継者争いである御館の乱おこった。氏政はこの時、下野国において佐竹氏宇都宮氏対陣であったため、5月景虎援助のために氏照、氏邦らを越後国派遣した8月下旬には氏政自身景虎援助のため、上野国厩橋城まで出陣するが、すぐに小田原引き返している。 また、これと同時に同盟者義弟(妹・桂林院殿の夫)の武田勝頼にも援軍依頼した。勝頼は景虎支援のため北信濃出兵するが、景勝北信の上領や上野沼田の割譲条件に勝頼と和睦し甲越同盟)、勝頼は景虎景勝間を調停し和睦の成立に至るが、同年8月の勝頼撤兵中に和睦破綻する。氏照・氏邦は秋に本格的に越後入りを図るも、坂戸城での頑強な抵抗にあって冬の到来による積雪で、無念撤退強いられる。翌天正7年1579年)に景勝が乱を制する形で景虎自害したその後、勝頼の妹が景勝嫁いだ)。 景虎敗死により氏政は甲相同盟破棄し徳川家康同盟を結び駿河武田領国挟撃する。天正8年1580年)に勝頼を攻めて重須の合戦起きたが、勝負はつかなかった。上野国では勝頼の攻勢続き上野下野国衆も武田方に転じたため、劣勢に陥っている。 このため同年3月10日には石山本願寺降伏させて勢いづく織田信長に臣従申し出ている。8月19日に氏直に家督譲って隠居するが、これは在陣中異例のもので、父に倣い北条家政治・軍事実権掌握したとされているが、黒田基樹発給文書分析から、内政面軍事一部権限早い時期権限を氏直に移譲して、氏政は外交軍事主要部分担当したとしている。

※この「上杉・武田との戦い」の解説は、「北条氏政」の解説の一部です。
「上杉・武田との戦い」を含む「北条氏政」の記事については、「北条氏政」の概要を参照ください。

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