上杉景勝の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:29 UTC 版)
上杉景勝が関ヶ原の戦いで出羽米沢に減移封されたため、直江兼続は米沢城を景勝に譲った。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市、伊達郡、福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣本庄氏を城代として置いた。 米沢は直江兼続の所領であったが、直江は上杉家全体の執政として若松城に詰めていたことが多かったため、内政はほとんど整っておらず、城下は蒲生家の時代に築かれた8町6小路の町人町と数百の侍町があるに過ぎない小さな城下町であった。この小さな城下町に会津に住んでいた家臣団や越後以来の寺社・職人などが大人数で移ってきたため、城下は大混乱した。直江は上・中級家臣は別として、下級家臣に対しては一軒に2、3世帯を共同で同居させてそれでも住居が無理なら掘っ立て小屋を建てたという。また屋敷割りから祖の上杉謙信の霊廟を築いたりした。 大坂の陣では徳川方についた。米沢の藩政の基礎を固めた直江兼続は元和5年(1619年)12月に、上杉景勝はその4年後に死去した。
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