蒲生家の時代
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慶長6年(1601年)8月24日、景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石で入部した。この加増は東軍の中ではトップクラスであり、正室が家康の娘ということが作用したといわれる。一説には景勝の謝罪の遅れに加え、その旧領に武田信吉を入れる構想もあり、会津に誰を入れるかで纏まらなかったが、信吉の病気と景勝の入部経緯から秀行に対して会津を与えられることになったという。 秀行は執政に津川城代2万石の岡重政を任命したが、これが原因で以前から続いていた家中内紛が再燃した。特に三春城代の蒲生郷成に至っては、岡と激しく対立して、遂には出奔するほどだった。しかし、その岡も秀行が死ぬと未亡人となった振姫と対立し、その父である徳川家康の意向によって処刑され、郷成らが呼び戻されることになる(ただし、郷成自身は帰国途中で病死)。 慶長16年(1611年)8月21日には会津地震が藩内を襲った。震源地は柳津町滝谷付近でマグニチュードは7と推定、若松城天守の石垣が崩れ、天守は傾き、城下町では2万戸余が倒壊、死者は3700名に上り、山崩れのために23の村が没したという。秀行は家中内紛と地震のためか、この地震の翌年5月14日に30歳で死去した。 跡を継いだのは秀行と振姫の間に生まれた長男の忠郷で、忠郷は寛永元年(1624年)に将軍家光(従兄弟)、大御所秀忠を江戸屋敷に招くなど幕府との関係を強化した。一方、会津領内の産金は蒲生家再封時代に全盛期を迎え、280万両の採掘が行なわれた。 しかし忠郷は寛永4年(1627年)に25歳で若くして急死する。忠郷には子がおらず会津蒲生家は改易となったが、母が徳川家康の娘であるため、同母弟で出羽上山藩主の忠知を当主として伊予松山へ24万石で減封されて蒲生家の存続は許された。しかし忠知もこの7年後に子が無いまま30歳で急死している。
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