蒲生家の時代とは? わかりやすく解説

蒲生家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:13 UTC 版)

会津藩」の記事における「蒲生家の時代」の解説

慶長6年1601年8月24日景勝に代わって関ヶ原の戦い東軍与した蒲生秀行60万石入部した。この加増東軍の中ではトップクラスであり、正室家康の娘ということ作用したといわれる一説には景勝謝罪の遅れに加え、その旧領武田信吉入れ構想もあり、会津に誰を入れるかで纏まらなかったが、信吉病気景勝入部経緯から秀行に対して会津与えられることになったという。 秀行は執政津川城2万石の岡重政任命したが、これが原因以前から続いていた家中内紛再燃した。特に三春城代の蒲生郷成至っては、岡と激しく対立して遂に出奔するほどだった。しかし、その岡も秀行が死ぬと未亡人となった振姫対立し、その父である徳川家康意向によって処刑され、郷成らが呼び戻されることになる(ただし、郷成自身帰国途中で病死)。 慶長16年1611年8月21日には会津地震が藩内を襲った震源地柳津町滝谷付近マグニチュードは7と推定若松城天守石垣崩れ天守傾き城下町では2万戸余が倒壊死者は3700名に上り山崩れのために23没したという。秀行は家中内紛地震のためか、この地震翌年5月14日30歳死去した。 跡を継いだのは秀行と振姫の間に生まれた長男の忠郷で、忠郷は寛永元年1624年)に将軍家光(従兄弟)、大御所秀忠江戸屋敷に招くなど幕府との関係強化した一方会津領内産金蒲生家再封時代全盛期迎え280万両採掘が行なわれた。 しかし忠郷は寛永4年1627年)に25歳若くして急死する。忠郷には子がおらず会津蒲生家は改易となったが、母が徳川家康の娘であるため、同母弟で出羽上山藩主の忠知を当主として伊予松山24万石減封されて蒲生家の存続許された。しかし忠知もこの7年後に子が無いまま30歳急死している。

※この「蒲生家の時代」の解説は、「会津藩」の解説の一部です。
「蒲生家の時代」を含む「会津藩」の記事については、「会津藩」の概要を参照ください。

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