蒲生川流域の鉱山と荒金鉱山の鉱毒問題
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「蒲生川 (鳥取県)」の記事における「蒲生川流域の鉱山と荒金鉱山の鉱毒問題」の解説
蒲生峠の真下の三日月山には、かつて因幡銀山があった。戦国末期の1593(文禄2)年に初めて発見され、当時の鳥取城主宮部継潤が盛んに開発を行った。最盛期には700-800軒の家が立ち並び、1598(慶長3)年には当地産の銀9282枚余が豊臣秀吉に献上されたと記録されている。これは生野銀山に次ぐ産出量だった。しかし、さらに鉱脈を得るために山を崩し、川の水で土砂を流して採掘が行ったところ土砂崩れを招き、銀鉱は間もなく廃絶した。関ヶ原の戦いの後に池田長吉が入封した時には既に銀山からは何も得られなくなっていた。 銀山の対岸にあたる塩谷・法正寺地区では、江戸中期から金や銅を産する蒲生銅山が開発された。最盛期には銅銭2万貫を鋳造するだけの産出量があり、「因幡銭」と称した。しかし10-20年のうちに銅の産出量は激減し、細々と採掘される程度になった。幕末から明治にかけて再び銅山の開発が盛んになり、明治中期からは「宝得鉱山」として民間の操業が行われたが、明治末期には閉山になった。 一方、これらの鉱山と山を隔てた小田川支流の荒金川上流には荒金鉱山がある。ここでは古代から金を産したが、精錬技術がなかったため鉱石のまま朝廷に献上されており、そのために「鉱(あらかね)」が村の名前になったとされている。荒金川の右岸には、当時の鉱山管理のための役所跡ともみられる古代の建物跡からなる広庭遺跡がある。しかし、鉱山の採掘は近世までほとんど行われておらず、明治中期にはいって銅の露頭が見つかり、開発が本格化した。鉱石は新井地区まで陸送し、そこから船で運び出していたが、明治末期に山陰本線が開通すると、岩美駅から鉄道で輸送するようになった。 しかし銅山の開発によって荒金川・小田川流域の鉱毒汚染が深刻化し、一帯の水田が無収穫になるほど悪化した。銅山では金銭補償や廃水を中和するための石灰の現物支給、汚染されていない水を引くための水路整備などを行ったが、こうした負担と景気の低迷によって鉱山経営は下火になった。1923(大正12)年に鉱山大手の久原鉱業に経営権が渡ると、第一次世界大戦に伴う好況とあいまって銅山は最盛期を迎え、蒲生川沿いに岩井町営軌道が敷かれて鉱石の輸送を担った。 一方、川の汚染は銅山最盛期には最悪の状態を迎えた。かつて荒金川・小田川には、鯉、フナ、ナマズ、ウグイ、ウナギ、カニ、アユなどが生息していたが、昭和に入る頃にはこれらが全く見られなくなった。汚染は蒲生川にも及び、合流して海に注ぐあたりの魚も死滅し、蒲生川には全く魚が遡上しなくなった。水田も被害を受け、苗が枯れて浮き上がったり、秋になっても結実しなくなった。鉱山のすぐ下流の院内地区では鉱山廃水を避けるために別の谷に独自のダムを設けて溜池を作ったが、これだけでは一帯の農地を潤すには足りず、多くの地域ではやむなく廃水に石灰を混ぜて中和して利用した。 昭和に入ると銅の産出量が落ちてきたが、1943(昭和18)年の鳥取地震で鉱山内の施設が全壊するとともに、鉱泥を溜めた堰堤が崩壊して周辺の家屋を押しつぶして62名の死者行方不明を出すに及び、鉱山経営は行き詰った。さらに翌年の大雨でこの鉱泥が広範囲に流出して水田を汚染し、小田川流域一帯は米の収穫が得られなくなった。銅価格の下落もあって経営が立ち行かなくなった鉱山は閉山となり、廃水管理だけを行うようになったが、流域はその後も長年にわたって鉱毒に悩まされることになった。 鉱山の営業末期には沈殿銅採集といって、坑道の上流側から沢水を集めて注ぎ、下流で水に溶け出た銅成分を化学的手法で回収する方法がとられていた。銅山が閉山になったあとも、雨が降ると流れこんだ水が汚染水となって流れ出てくるため、永続的な抗廃水処理が必要となっている。いまも廃ス水処理は行われており、回収した汚泥からの金属資源採取の取り組みもあるが、収支に見合うような成果は得られていない。川の水質は廃水処理によって漸次向上し、1960年代になって、ようやく蒲生川本流の岩井付近で小鮎がみられるほどに回復した。
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