蒲生川の水運
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 23:49 UTC 版)
三方を山に隔てられた蒲生川流域はかつて陸の孤島の様を呈していた。但馬や鳥取方面へ通じる山陰道があったものの、険路だったため、江戸時代には年貢の輸送などで蒲生川の水運が盛んだった。蒲生川の恩志や小田川の岩常には江戸時代に船着き場があり、上流から運ばれる年貢米の中継地になっていた。 現在の網代漁港は、河口側から網代、沓井、岩本地区に面しているが、かつてはそれぞれ別の港だった。このうちもっとも内陸側の岩本港が風の影響が小さく、江戸時代を通して番屋が置かれて海上交通の起点となっていた。岩本港には鳥取藩の蔵があり、岩井郡各地の年貢米をいちど集積し、大型船で鳥取の賀露港を経由して上方へ回送していた。網代港が本格的に拓かれたのは1862(文久2)年の築港工事以降である。 このあたりに鉄道(山陰本線)が開通するのは明治末期を待たねばならず、それまで岩本港・網代港はこの地域の物流・交通の要衝として大いに栄えた。鉄道が全通した大正期以降は、交易港の役割を終え、漁港となった。
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