上杉方への鞍替え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 16:09 UTC 版)
長職は神通川以東を失ったが、本領の射水・婦負二郡の支配権は従前通り認められた。その後も上杉氏・椎名氏とは対立を続けたが、永禄9年(1566年)に能登畠山氏に内紛が起こり、畠山義綱父子が重臣により追放されると、長職は上杉謙信と共同して義綱の能登復帰作戦を支援する。 永禄11年(1568年)、椎名康胤が上杉氏を離反して武田・一向一揆方に立つと、神保家中は嫡子・神保長住を仰ぐ家老・寺島職定を中心とする反上杉派が台頭し、親上杉派の家老・小島職鎮と対立した。長職は長住一派を弾圧し、それまで親密だった一向一揆への攻撃を開始したため家中は分裂し内戦状態となった。上杉家の介入によって反上杉派は壊滅したが、神保家の上杉氏への従属を深める結果となった。長住は出奔して後に京で織田信長に仕えた。 永禄13年(1570年)1月、足利義昭を擁し上洛を果たした信長が義昭の名で全国の有力諸大名に上洛命令を発した中には、「越中神保名代」も含まれていた。しかしこの頃神保氏は内紛の結果疲弊しており、名代を派遣できたかは不明。また、家中の実権は次第に親上杉派の小島職鎮に牛耳られていったとされる。 長職は剃髪して宗昌と号し、家督を次男神保長城に譲っていたが、元亀2年(1571年)末頃、再び立場を一変させ、一向一揆と和睦し、反上杉の立場をとった。その後、長職は史料に表れず程なく死去したものと思われる。
※この「上杉方への鞍替え」の解説は、「神保長職」の解説の一部です。
「上杉方への鞍替え」を含む「神保長職」の記事については、「神保長職」の概要を参照ください。
- 上杉方への鞍替えのページへのリンク