宇喜多基家とは? わかりやすく解説

宇喜多基家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/26 15:20 UTC 版)

 
宇喜多基家/宇喜多元家
時代 安土桃山時代
生誕 永禄5年(1562年)?[要出典]
死没 天正10年(1582年)2月[1][2]
別名 浮田基家、浮田元家
通称:与七郎[3][4]→与太郎[5]
墓所 大賀島寺岡山県瀬戸内市邑久町豊原
主君 宇喜多直家秀家
氏族 宇喜多氏
父母 父:宇喜多忠家 または 宇喜多春家
養父:宇喜多直家
兄弟 (忠家が父の場合) 基家、女(富田信高室)、坂崎直盛、女(高橋元種室)
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宇喜多 基家宇喜多 元家(うきた もといえ)は、安土桃山時代武将備前国戦国大名である宇喜多氏の一族。宇喜多春家または宇喜多忠家の子で、伯父である宇喜多直家の養子となった[2]備前国沼城主。

名前の表記については「基家」が知られているが、播磨国斑鳩寺に宛てた本人発給の書状では「元家」と署名しており[6][7]宇喜多氏毛利氏に味方していた時期に毛利輝元から「元」の偏諱を与えられた可能性がある。

生涯

永禄5年(1562年)頃[要出典]宇喜多忠家、または、宇喜多春家の子として生まれる。『浦上宇喜多両家記』によると、宇喜多直家に男子がいなかったことから、忠家の子である基家を後継者としていたが、元亀3年(1572年)に直家の嫡男・八郎(後の宇喜多秀家)が生まれると、後継者からは外れたという[8]

天正7年(1579年7月19日、備前国和気郡加賀美八塔寺に5ヶ条の禁制[注釈 1]を発給した[3][4]。なお、この時は「与七郎」の通称を名乗っていた[3][4]

同年9月頃から宇喜多氏毛利氏から離反し、翌10月に羽柴秀吉の取り成しにより宇喜多氏と織田氏の和睦が成立すると、宇喜多直家は名代として基家を織田氏のもとに派遣し、10月30日摂津国川辺郡昆陽野の織田軍陣中において織田信忠と面会している[5][9]

天正10年(1582年)2月、備前国児島郡八浜[注釈 2]における八浜合戦において、基家は宇喜多氏の新当主となった宇喜多秀家の名代として出陣し、毛利氏一門の穂井田元清らが率いる毛利軍を相手に宇喜多忠家を中心として奮戦したが、基家が流れ弾に当たって戦死する大敗北を喫した[1]。この合戦には宇喜多春家と忠家も加わっていたが、春家も討死したとされる[2]

死後

基家は宇喜多氏の菩提寺とされる大賀島寺に葬られたが、岡山県玉野市八浜町大崎には与太郎神社も築かれ、いつのころからか「与太郎様」と呼ばれ、足の神様として信仰を集めている。

逸話

  • 年不詳だが、播磨国揖保郡斑鳩斑鳩寺から祈祷の巻数と銅銭100疋を贈られたため、中山長門守を通じて書状を送り、快然の至りであると喜びの意を表している[6][7]
  • 岡山県瀬戸内市邑久町豊原にある天台宗寺院で、基家の墓もある大雄山大賀島寺には、基家が着用した「与太郎甲冑」と呼ばれる甲冑が所蔵されており[注釈 3]昭和61年(1986年12月24日に邑久町の町指定重要文化財工芸)に指定されている[11]。「与太郎甲冑」は、胴部を構成する札が一枚の横板で、頭部に矢筈形の切り込みを入れて小札の様に見せた切付小札に黒漆を塗った鹿革で覆っており、兜の頂上のとがった部分を指す「とっぱい」は鉄を成形したものに黒漆を塗った鹿革で覆い、その上に金箔を押したものとなっている[11]。なお、大賀島寺に伝わる『宇喜多与太郎元家甲冑記』には、基家が戦死した八浜合戦における基家のいでたちを「薄鉄の矢筈頭を銀磨にし、黒糸で大荒目に威たる二毛胴に同毛のとっぱいの冑を着し、群に抽きたる装い」と記している[11]

脚注

注釈

  1. ^ 禁制の内容は以下の通り。①本堂を再興し仏像を造立する事。②勤行に専念する事。③座方の輩は衆徒の下知に背いてはならない事。④一里四方の内、山留をする事。⑤守護使不入の事[3][4]
  2. ^ 現在の岡山県玉野市八浜町
  3. ^ 邑久町文化財保護委員会、邑久町教育委員会編『邑久町の文化財』に「与太郎甲冑」の写真が掲載されている[10]

出典

  1. ^ a b 渡邊大門 2011, p. 167.
  2. ^ a b c 『百家系図』巻29所収「浮田系図」、『百家系図稿』巻17所収「宇喜多系図」
  3. ^ a b c d 岡山地方史資料叢書 第8 1971, pp. 225–226.
  4. ^ a b c d 『黄薇古簡集』巻8「上道郡」「八塔寺村照境山八塔寺所蔵文書」第8号、天正7年(1579年)7月19日付け、与七郎(宇喜多元家)禁制。
  5. ^ a b 信長公記』巻12、天正7年(1579年)10月30日条。
  6. ^ a b 兵庫県史 史料編 中世3 1988, p. 22.
  7. ^ a b 『斑鳩寺文書』第28号、年不詳11月27日付け、会米宛て、(宇喜多)元家書状。
  8. ^ 渡邊大門 2011, p. 164.
  9. ^ 渡邊大門 2011, p. 161.
  10. ^ 邑久町の文化財 1987, p. 17.
  11. ^ a b c 邑久町の文化財 1987, p. 16.

参考文献





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