穂田姓を名乗る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 09:46 UTC 版)
同年、毛利氏が北九州に侵攻した際に備中国が手薄になると、これに乗じて宇喜多直家が毛利氏に背き、備中松山城(岡山県高梁市)、同猿掛城(岡山県倉敷市・矢掛町)を攻め落とした。元清は父に命じられて三村元親と共に猿掛城を奪還し、松山城からは庄高資を追い出した。翌永禄12年(1569年)、毛利氏が北九州の覇権を巡って大友氏と対立したため、立花山城の戦い、門司城の戦い、多々良浜の戦いに出陣。同年12月には備中に兵を移し、熊谷信直・三村元親と共に宇喜多氏に臣従した植木秀長の佐井田城攻略を目指して兵を進め、後月・小田・浅口を順調に平定して佐井田城に向かったが、援軍に駆けつけた直家配下の戸川秀安に敗れ撤退した。 元亀2年(1571年)2月には再び庄高資に奪われた松山城奪還のために三村元親と共同で攻め込み、庄高資を討ち取って松山城を奪い返した。元亀3年(1572年)、安芸桜尾城(広島県廿日市市)を与えられた。 天正2年(1574年)、毛利氏がそれまで敵対していた宇喜多直家と事実上の同盟を結んだため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏から離反した。これに対し、兄の元春と隆景に従って三村元親討伐のため出陣し、翌天正3年(1575年)6月には三村元親を切腹させ、11月には三村氏残党の拠る杠城を攻め落とし、三村氏を完全に降伏させた(備中兵乱)。この功と元清自らの愁訴によって猿掛城を預かる城番となり、猿掛城の所在する備中小田郡を中心に5千貫の知行地を与えられた。元清は桜尾城を妻の御北尾と九弟の才菊丸(後の小早川秀包)に任せて備中猿掛城に移り、毛利氏の東部方面への侵攻を抑える重鎮となった。 また、この時に猿掛城のあった穂田郷の在名から、穂田(穂井田)姓を名乗っている。後年に作成された「末家両川巨室系図」などの家譜等では、元清が三村家親の子である穂井田元祐(庄元資)の養子となり穂井田姓を名乗ったとしているが、年不詳(天正7年以降)8月14日付の村山大夫宛て毛利元清書状において、毛利輝元に遠慮して在名である「穂田」を名乗ったと元清自らが述べ、庄氏との関係を否定している。 天正4年(1576年)、麦飯山の戦いにおいて宇喜多基家の軍勢と戦い、天正5年(1577年)に織田信長による中国攻めが始まると、児島の戦いにおいて信長に通じた宇喜多直家の軍勢と戦ってこれを撃退。また、羽柴秀吉の軍勢に取り囲まれた桂広繁の軍勢を元清自らが3,000の兵を率いて救出した。天正6年(1578年)の上月城の戦いでは、七弟の天野元政と共に自ら軍の先頭に立ち、上月城を落城させるという大功を立てた。
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