直家、再度の離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 14:51 UTC 版)
詳細は「天神山城の戦い」を参照 天正元年(1573年)12月、信長の計らいで別所長治と和解。この席で宗景は信長から朱印状を与えられ備前・播磨・美作3カ国の支配権を認められる。ここに旧主赤松氏を凌ぎ、かつての守護職に相当する地位を得て宗景の代で浦上氏は隆盛の頂点を見る。しかしながらこの朱印状は浦上家の基盤が無い東播磨を治める小寺氏や別所氏までも浦上氏の臣下扱いにするという事を意味しており、宗景の意図せぬ形で反感を買う事となった。この対立関係に目を付けたのが宇喜多直家で、小寺政職預りとなっていた政宗の孫・久松丸の備前入りを密かに打診し、政職の承諾を得て宇喜多領へと引き入れている。 翌、天正2年(1574年)3月、久松丸を擁立し宇喜多直家が再度離反。備前・美作の各地で宇喜多軍と宗景の直参「天神山衆」が争う。宗景もすぐに外交戦を展開し、備中の三村元親、美作の三浦貞広などを同盟に引き込んだ。また、大友宗麟、三好長治へも援軍を要請したがこちらは相手側の事情もあって不調に終わる。しかし、前回とは違って此度の謀反は久松丸の存在と直家の事前の諜略によって美作の沼本氏や菅納氏など美作国衆や備前の宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、苦戦を余儀なくされる。さらに、これを傍観していた毛利輝元も織田信長の「両者の和解を周旋すべし」という要請を無視し、再三に渡り織田の尖兵として毛利に反抗してきた浦上氏を倒すために宇喜多支援を決定。天正3年(1575年)6月に毛利軍は三村元親を攻め滅ぼし、「備中兵乱」と呼ばれた一連の戦いを平定して、直家支援を本格化させると宗景は追い詰められた。 さらに重臣の明石行雄等の離反に遭い、同年9月には天神山城から宇喜多軍の包囲を掻い潜り脱出して、一旦播磨の小寺政職の下へ退却。その後、宗景は織田信長の派遣した荒木村重の支援を得て「宇喜多端城」(所在地不明)を奪回し、以後はここに在城した。
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