直家による国衆切り崩し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:15 UTC 版)
「天神山城の戦い」の記事における「直家による国衆切り崩し」の解説
天正2年(1574年)3月、浦上宗景との表立った開戦に先立って直家は浦上と同盟している三浦貞広が浦上に味方する事を見越し、連携を断つ為に備前国境付近の美作国衆を重点的に調略を仕掛け、久米郡の領主である原田貞佐・原田行佐親子を味方に付ける事に成功。また、三浦領にほど近い岩屋城を花房職秀と原田貞佐に強襲させ、わずか一日で城を奪取し城を治める芦田一族を追放すると、岩屋城代に浜口家職を送り込み直轄支配に乗り出している。このすぐ後の4月5日には浦上宗景が三浦家臣の牧清冬(尚春の孫)に三浦貞広が味方をしてくれる事に関して謝辞を述べた上で新たに所領を宛がう旨を伝えた書状が残っており、三浦貞広が浦上陣営に参加する事が明確となった。そして4月18日、備前鯛山でついに初めて浦上と宇喜多両軍は衝突し、緒戦は宇喜多軍が勝利を飾った。 この直家の挙兵に関して浦上宗景は当初楽観視しており5月の時点で讃岐の安富盛定に宛てた書状では「毎々得勝利候」と報ずるなど余裕を見せていたが、浦上軍はこれ以後、6月には高尾山の合戦で敗れるなど苦戦が続いていた。一方で直家は更に美作の弓削衆を調略で切り崩し菅納・沼本氏を寝返らせ、宇喜多に味方をしなかった小坂氏などを追放し、美作と備前の連絡路を早い段階で差し押さえることに成功し、戦局を優位に展開した。 直家の国人衆切り崩しに危機感を抱いた宗景は結束を固めるために9月~10月にかけて段銭や自らが地頭職を務める兵粮料所、公用田などを一斉に配下の国衆に与え引き止め工作を行なっている。その甲斐あってか10月下旬の美作豊田の戦いや備前鳥取の戦いでは石川源助や花房与左衛門の活躍で相次いで浦上方が勝利を収め、以後浦上軍が天神山城とその支城群を中心に堅守し始めると宇喜多軍もここまでのような快進撃とは行かず戦線が膠着し始める。
※この「直家による国衆切り崩し」の解説は、「天神山城の戦い」の解説の一部です。
「直家による国衆切り崩し」を含む「天神山城の戦い」の記事については、「天神山城の戦い」の概要を参照ください。
- 直家による国衆切り崩しのページへのリンク