直家、最初の離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/03 14:51 UTC 版)
永禄12年(1569年)には旧播磨守護家の赤松義祐と赤松則房、播磨国の有力国人・小寺政職らと結んで、これの救援を名目に播磨における政宗の遺領を吸収して、西播磨において侮り難い勢力となっていた赤松政秀を討つ為に備作衆を率いて播磨西部へ侵攻。また尼子氏再興を目指す尼子勝久などの反毛利の勢力を積極的に支援し、九州の大友宗麟とも同盟して毛利氏への対抗姿勢を露わにする。 しかし、宗景の攻撃に耐えかねた赤松政秀は同年に上洛を果たした将軍・足利義昭と織田信長に救援を要請。8月から9月にかけて宗景は義昭・信長の派遣した池田勝正・別所安治の攻撃を受ける。同時に、密かに信長と内通していた宇喜多直家も宗景に対して反旗を翻し宗景は窮地に立たされた。しかし、義昭・信長勢は播磨の城を数ヶ所攻め落とすとすぐに撤退し、逆に宗景は信長方の赤松政秀の龍野城を追い詰め、11月には政秀を降伏させて政秀の所領を手中にする。あてが外れた形となり備前で完全に孤立した直家は、その年のうちに宗景に謝罪し帰参を許されている。 織田信長の脅威が去った事で宗景は翌元亀元年(1570年)、今度は備中南部へと侵攻した。また、尼子勝久の要請に応じて援軍を出雲国に派遣し、またその一方で別動隊を東に向けて赤松則房を支援、別所長治の三木城を攻撃する姿勢を見せるなど活発な軍事活動を行う。元亀2年(1571年)には同盟を結んでいた三好氏の篠原長房と協力して備前児島で毛利氏に勝利。同年秋以降、備中の佐井田城、松島城などで毛利・三村の軍勢を撃退している。しかし元亀3年(1572年)に北九州における大友宗麟との競り合いにけりがついた毛利氏が一丸となって東進して来ると、宗景は足利義昭・織田信長に仲裁を頼んで毛利との和睦を計る。最初、毛利輝元は和議に応じなかったが、結局10月に毛利・浦上の間で講和が結ばれ、双方の城の明け渡しが行われた。
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