近江肥田城主とは? わかりやすく解説

近江肥田城主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 11:02 UTC 版)

蜂屋頼隆」の記事における「近江肥田城主」の解説

天正5年1577年)、雑賀攻めにおいて、2月10日尾張美濃軍勢率いて出陣する織田家当主織田信忠近江愛智郡肥田城を宿舎として提供したこの頃、頼隆も織田家宿将1人として琵琶湖沿岸の城を与えられていたことがわかる。軍勢信長の待つ京都集結し13日出陣するが、悪天候でしばしば順延した。同年3月1日信長滝川一益明智光秀丹羽長秀・頼隆・長岡藤孝筒井順慶に、鈴木重秀雑賀城攻撃させた。同年8月松永久秀反逆すると、9月、再び出陣した信忠肥田城を宿舎として提供した天正6年1578年4月4日信忠に従って大坂出陣5、6日、諸将と共に石山本願寺攻め加わり、麦をなぎ払って帰陣した。同年6月、再び信忠に従って播磨国従軍し同月27日滝川一益稲葉一鉄・頼隆・筒井順慶武藤舜秀明智光秀安藤守就氏家直昌荒木村重神吉城攻撃した激戦の末、同城は7月16日落城した。 同年11月荒木村重謀反明らかになると、9日信長摂津出陣滝川一益明智光秀丹羽長秀・頼隆・安藤守就・氏家直昌稲葉一鉄荒木方の茨木城対す付け城太田郷砦の普請命じられた。普請完成すると、14日築城行った七将と武藤舜秀羽柴秀吉長岡藤孝有岡城の戦い先陣命じられた。さらに頼隆・長秀・蒲生賢秀若狭衆は見野要害に陣を構えたまた、12月1日大和田城安部右衛門織田方に返ろうとしたが、父と祖父反対して天守立て篭もったので、2日、二右衛門偽って頼隆・阿閉貞征の陣に銃撃し、父と祖父安心して天守から降りたところを捕らえて京に人質として送り3日夜、織田方に降って信長から褒美もらったということがあった。 12月11日信長重が籠城する伊丹城有岡城)の周囲に付け城を築くように命じ、長秀・頼隆・蒲生氏郷高山右近織田信孝そのひとつの塚口郷の砦に在番した。この包囲年を越して長期及んだので、信長各地鷹狩り興じている。 天正7年1579年4月越前衆の帰郷認められるなど伊丹方面配置換えがあり、塚口郷の砦は長秀・頼隆・氏郷の三将となった6月20日信長伊丹城包囲の一益・頼隆・舜秀・長秀・福富秀勝の5名に褒美として、はいたか)3羽、小男(このり)2羽を与えた9月2日夜、重が数名の供だけをつれて脱出すると、一益の調略きっかけに、10月15日より伊丹城支城への猛攻が始まる。裸城となった伊丹城降伏申し出るが、信長拒絶した19日荒木方の部将尼崎城重を説得するために伊丹城退去し妻子人質として残していった。伊丹城織田信澄接収した。 しかし、尼崎城花隈城投降せず、12月には妻子警護役だった荒木方の池田和泉人質案じ絶望して鉄砲自害した12月12日信長可哀相だとは思ったが、重の身内の者である妻子京都護送させ、一方で摂津国有力者妻子選び出して長秀・頼隆・一益に命じて磔にするように指示した13日、こうして集められ人質130名が尼崎磔刑になり、以後中級以下の武士の妻子として女388人・男124人も処刑された。重の身内の者は、16日、(頼隆は関与してないが)越前衆の諸将奉行として京都六条河原処刑された。 「有岡城の戦い」も参照 なお、この頃天正7年3月13日高槻城病死し大津長治正室を、頼隆は妻として迎えた。子のいない頼隆は長秀の四男・直政養子迎えている。

※この「近江肥田城主」の解説は、「蜂屋頼隆」の解説の一部です。
「近江肥田城主」を含む「蜂屋頼隆」の記事については、「蜂屋頼隆」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「近江肥田城主」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「近江肥田城主」の関連用語

近江肥田城主のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



近江肥田城主のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの蜂屋頼隆 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS