近江肥田城主
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天正5年(1577年)、雑賀攻めにおいて、2月10日、尾張・美濃の軍勢を率いて出陣する織田家当主の織田信忠に近江愛智郡肥田城を宿舎として提供した。この頃、頼隆も織田家宿将の1人として琵琶湖沿岸の城を与えられていたことがわかる。軍勢は信長の待つ京都に集結し、13日に出陣するが、悪天候でしばしば順延した。同年3月1日、信長は滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・頼隆・長岡藤孝・筒井順慶に、鈴木重秀の雑賀城を攻撃させた。同年8月に松永久秀が反逆すると、9月、再び出陣した信忠に肥田城を宿舎として提供した。 天正6年(1578年)4月4日、信忠に従って大坂へ出陣。5、6日、諸将と共に石山本願寺攻めに加わり、麦苗をなぎ払って帰陣した。同年6月、再び信忠に従って播磨国に従軍し、同月27日、滝川一益・稲葉一鉄・頼隆・筒井順慶・武藤舜秀・明智光秀・安藤守就・氏家直昌・荒木村重で神吉城を攻撃した。激戦の末、同城は7月16日に落城した。 同年11月に荒木村重の謀反が明らかになると、9日、信長は摂津へ出陣。滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・頼隆・安藤守就・氏家直昌・稲葉一鉄に荒木方の茨木城に対する付け城・太田郷砦の普請が命じられた。普請が完成すると、14日、築城を行った七将と武藤舜秀・羽柴秀吉・長岡藤孝に有岡城の戦いの先陣が命じられた。さらに頼隆・長秀・蒲生賢秀と若狭衆は見野村の要害に陣を構えた。 また、12月1日、大和田城の安部二右衛門は織田方に寝返ろうとしたが、父と祖父が反対して天守に立て篭もったので、2日、二右衛門は偽って頼隆・阿閉貞征の陣に銃撃し、父と祖父が安心して天守から降りたところを捕らえて京に人質として送り、3日夜、織田方に降って信長から褒美をもらったということがあった。 12月11日、信長は村重が籠城する伊丹城(有岡城)の周囲に付け城を築くように命じ、長秀・頼隆・蒲生氏郷・高山右近・織田信孝はそのひとつの塚口郷の砦に在番した。この包囲は年を越して長期に及んだので、信長は各地で鷹狩りを興じている。 天正7年(1579年)4月、越前衆の帰郷が認められるなど伊丹方面で配置換えがあり、塚口郷の砦は長秀・頼隆・氏郷の三将となった。6月20日、信長は伊丹城包囲の一益・頼隆・舜秀・長秀・福富秀勝の5名に褒美として、鷂(はいたか)3羽、小男鷹(このり)2羽を与えた。 9月2日夜、村重が数名の供だけをつれて脱出すると、一益の調略をきっかけに、10月15日より伊丹城の支城への猛攻が始まる。裸城となった伊丹城は降伏を申し出るが、信長は拒絶した。19日、荒木方の部将が尼崎城の村重を説得するために伊丹城を退去し、妻子を人質として残していった。伊丹城は織田信澄が接収した。 しかし、尼崎城・花隈城は投降せず、12月には妻子の警護役だった荒木方の池田和泉は人質を案じ、絶望して鉄砲で自害した。12月12日、信長も可哀相だとは思ったが、村重の身内の者である妻子は京都に護送させ、一方で摂津国の有力者の妻子を選び出して長秀・頼隆・一益に命じて磔にするように指示した。 13日、こうして集められた人質130名が尼崎で磔刑になり、以後、中級以下の武士の妻子として女388人・男124人も処刑された。村重の身内の者は、16日、(頼隆は関与してないが)越前衆の諸将を奉行として京都の六条河原で処刑された。 「有岡城の戦い」も参照 なお、この頃、天正7年3月13日に高槻城で病死した大津長治の正室を、頼隆は妻として迎えた。子のいない頼隆は長秀の四男・直政を養子に迎えている。
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