明応の井田野合戦
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明応2年(1493年)10月13日には三河国加茂郡衣(挙母市)にあった鎌倉幕府以来の名族中条氏が、その被官衆ともいう碧海郡上野(豊田市上郷町)の阿部氏、加茂郡寺部(豊田市寺部町)の鈴木氏、同郡伊保(豊田市保見町)の三宅氏、同郡八草(豊田市八草町)の那須氏らを糾合して松平氏を攻めた。この時、信光嫡男の親長と次男の乗元は在京中であったため、安城家の親忠が松平勢全軍を指揮したとされる。この戦いは、矢作川の上の瀬を渡り井田野(岡崎市)に陣を取った中条勢4000名を安城の親忠勢2000名が迎撃圧倒したのを、更に井口・鴫田から岩津勢が襲撃したため、中条勢は崩れて敗走した(明応井田野合戦)。平野によれば、岩津勢のこの加勢が挟撃となったため中条勢は敗走したと推定する。この戦いの結果、安城の親忠の武名が大いに上がり、三河物語など江戸期以降の諸書は松平氏惣領の立場になったとするが実際は不在の親長等の血縁上の代理であった親忠が、この戦いの勝利で惣領名代になったものではないかとの見方もある。
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