明応の政変と将軍足利義澄の信任
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「武田元信」の記事における「明応の政変と将軍足利義澄の信任」の解説
明応2年(1493年)4月22日、10代将軍・足利義材が廃された明応の政変に際しては、11代将軍・足利義澄を擁立した管領細川政元(勝元の子)を支援した。 この際、武田元信は明応2年閏4月3日に上洛している(『北野社家日記』)が、その2日前に細川京兆家と対立関係にあった大内政弘の娘が京都で誘拐される事件が発生している。ところが、早くから武田元信が先に政弘の娘との婚約を破棄された事への報復と噂されていた(『大乗院寺社雑事記』)。一方で、直後に細川政元が堺に滞在していた大内義興(政弘の子で先に誘拐された娘の実兄)を自陣営に勧誘しており、大内氏が政変に反対しないように政元と元信が人質を確保するために誘拐事件を起こしたとする見方もある(藤井崇『大内義興』戎光祥出版、2014年、P40-41)。 しかし、細川政元から恩賞として深草の地を貰う約束が反故になったことから、11月に家臣と共に出奔してその後若狭に帰国してしまった。ただし、間もなく細川政元と和解して越中国に逃れた前将軍足利義材の上洛に備えている。 明応8年(1499年)10月、足利義材は畠山尚順と連携して上洛戦を開始し、まず元信の領国である若狭に向かった。これは若狭の国人たちを説き兵士を募ろうとしたと考えられる。しかし、これは成功せず、足利義材は近江の海津を通り、同年11月に坂本まで進軍した。在京していた元信は足利義澄・細川政元に加勢して後土御門天皇を警護し、結果、足利義材の上洛を退けた。足利義澄はこの功績から元信を相伴衆にしようとしたところ、細川政元が反対したため、代わりに朝廷の反対を押し切って文亀元年(1500年)に未だ叙爵を受けていない元信を従四位下に叙位させた。なお、朝廷では口宣案に既に叙位を受けていたとする虚偽の内容を盛り込んでいる。
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