明応の政変と将軍足利義澄の信任とは? わかりやすく解説

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明応の政変と将軍足利義澄の信任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 07:10 UTC 版)

武田元信」の記事における「明応の政変と将軍足利義澄の信任」の解説

明応2年1493年4月22日10代将軍足利義材廃され明応の政変に際しては、11代将軍・足利義澄を擁立した管領細川政元勝元の子)を支援したこの際武田元信明応2年閏4月3日上洛している(『北野社日記』)が、その2日前細川京兆家対立関係にあった大内政弘の娘が京都誘拐され事件発生している。ところが、早くから武田元信先に政弘の娘との婚約破棄された事への報復噂されていた(『大乗院寺社雑事記』)。一方で直後細川政元が堺に滞在していた大内義興(政弘の子先に誘拐された娘の実兄)を自陣営に勧誘しており、大内氏政変反対ないように政元と元信人質確保するために誘拐事件起こしたとする見方もある(藤井崇『大内義興戎光祥出版2014年、P40-41)。 しかし、細川政元から恩賞として深草の地を貰う約束反故になったことから、11月家臣と共に出奔しその後若狭帰国してしまった。ただし、間もなく細川政元和解して越中国逃れた前将軍足利義材の上洛に備えている。 明応8年1499年10月足利義材畠山尚順連携して上洛戦を開始し、まず元信領国である若狭向かった。これは若狭の国人たちを説き兵士を募ろうとしたと考えられる。しかし、これは成功せず足利義材近江の海津を通り同年11月坂本まで進軍した在京していた元信足利義澄細川政元加勢して後土御門天皇警護し結果足利義材の上洛を退けた足利義澄はこの功績から元信相伴衆にしようとしたところ、細川政元反対したため代わりに朝廷反対押し切って文亀元年1500年)に未だ叙爵受けていない元信従四位下に叙位させた。なお、朝廷では口宣案に既に叙位受けてたとする虚偽内容盛り込んでいる。

※この「明応の政変と将軍足利義澄の信任」の解説は、「武田元信」の解説の一部です。
「明応の政変と将軍足利義澄の信任」を含む「武田元信」の記事については、「武田元信」の概要を参照ください。

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