明応の政変による政権奪取
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「細川政元」の記事における「明応の政変による政権奪取」の解説
詳細は「明応の政変」および「細川政権 (戦国時代)」を参照 明応2年(1493年)、将軍義材は畠山政長と共に畠山義豊討伐のため河内国へ出兵する。政元はこの出兵にも反対をして従軍を拒んだ。4月、京都に残留していた政元は日野富子や前政所執事・伊勢貞宗と組んで周到な根回しのもとクーデターを決行、以前将軍候補に推げた清晃を第11代将軍として擁立する(明応の政変)。興福寺の尋尊は義材は政元に政務を任せると約束しながら、その反対を無視して近江出兵と河内出兵と2度も大規模な軍事作戦を行ったこと、そして義材が自分の政策に反対する政元を討とうとしたことが原因であると記している。 この政変により、当初は畠山政長方であった赤松政則も政元に寝返り、孤立無援となった政長は自害し、大きな力を持っていた三管領畠山家の勢力は削ぎ落とされ、捕らえられた義材は京都龍安寺に幽閉されたうえ、将軍職を解任された。明応3年(1494年)、清晃は還俗して足利義高(後に義澄に改名)と名乗り将軍に就任、政元は管領に就任して実権を握り将軍を事実上の傀儡にして幕政を掌握し、京兆専制を確立するに至った。管領や幕臣が将軍を追放・挿げ替えるという実例は室町幕府において政元が初のことで、室町幕府将軍の権威が決定的に失墜した政変であった(ただし、管領の政治的職権の実態は既に失われており、政元の4度目にして最後の管領在任も実際には義高の元服の儀礼が行われた明応3年12月27日の1日間のみであった)。これより後の将軍は、実権のない名ばかりの存在となっていき、この政変と応仁の乱で失われた将軍権威復活と様々な要因で衰退へと進んでいく幕府の維持を強いられていくことになる。 但し、以後も幕府権力は存続していたとする見方もあり、伊勢貞宗は日野富子の意向で将軍義澄の後見役を務め、度々政元の行動を抑止している。また、政元の命を受け政変を主導していた政元家臣の京兆家内衆である丹波守護代・上原元秀が急死、京兆家内で政変に消極的な家臣が多数を占めるようになると、京兆家はなるべく幕府の意向を容認、前将軍義材派の巻き返しを用心する方向に切り替えたため、政変後の幕府と京兆家は協調関係に入っていたのではないかとする意見もある。
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