明応の政変による政権奪取とは? わかりやすく解説

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明応の政変による政権奪取

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:20 UTC 版)

細川政元」の記事における「明応の政変による政権奪取」の解説

詳細は「明応の政変」および「細川政権 (戦国時代)」を参照 明応2年1493年)、将軍義材は畠山政長と共に畠山義豊討伐のため河内国出兵する。政元はこの出兵にも反対をして従軍拒んだ4月京都残留していた政元は日野富子や前政所執事伊勢貞宗組んで周到な根回しのもとクーデター決行以前将軍候補に推げた清晃を第11代将軍として擁立する明応の政変)。興福寺尋尊は義材は政元に政務任せると約束しながら、その反対無視して近江出兵河内出兵2度大規模な軍事作戦行ったこと、そして義材が自分政策反対する政元を討とうとしたことが原因であると記している。 この政変により、当初畠山政長であった赤松政則も政元に寝返り孤立無援となった政長は自害し大きな力を持っていた三管領畠山家勢力削ぎ落とされ捕らえられた義材は京都龍安寺幽閉されたうえ、将軍職解任された。明応3年1494年)、清晃は還俗して足利義高(後に義澄に改名)と名乗り将軍就任、政元は管領就任して実権握り将軍事実上傀儡にして幕政掌握し京兆専制確立する至った管領幕臣将軍追放挿げ替えるという実例室町幕府において政元が初のことで、室町幕府将軍権威決定的に失墜した政変であった(ただし、管領政治的職権実態は既に失われており、政元の4度目にして最後管領在任実際には義高の元服の儀が行われた明応3年12月27日1日間のみであった)。これより後の将軍は、実権のない名ばかり存在となっていき、この政変応仁の乱失われた将軍権威復活様々な要因衰退へ進んでいく幕府維持強いられていくことになる。 但し、以後幕府権力存続してたとする見方もあり、伊勢貞宗日野富子意向将軍義澄の後見役務め、度々政元の行動抑止している。また、政元の命を受け政変主導していた政元家臣京兆家内衆である丹波守護代上原元秀急死京兆家内で政変消極的な家臣多数占めるようになると、京兆家はなるべく幕府意向容認前将軍義材派の巻き返し用心する方向切り替えたため、政変後の幕府京兆家協調関係入っていたのではないかとする意見もある。

※この「明応の政変による政権奪取」の解説は、「細川政元」の解説の一部です。
「明応の政変による政権奪取」を含む「細川政元」の記事については、「細川政元」の概要を参照ください。

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