江戸末期から明治初期:ルーツとしての飴売と大道芸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 23:27 UTC 版)
「チンドン屋」の記事における「江戸末期から明治初期:ルーツとしての飴売と大道芸」の解説
楽器を用いたり口上を述べたりして物を売り歩く職業としては、江戸中期より「飴売」という存在があり、文久年間には日本橋の薬店の店主が緋ビロードの巾着を下げ、赤い頭巾をかぶって市中を歩き広告をしたという記録があるが、これは自身の売り物を宣伝するためであり、広告請負であるチンドン屋とは異なる。 また、芝居小屋では鳴物の囃子が客寄せのために使われていた。本項では、東西屋の祖として「飴勝」という飴売と、大道芸の「紅かん」という江戸期の人物から始める。 飴勝は、大坂・千日前の法善寺を拠点として、弘化期に活動していた飴売で、その口上の見事さから寄席の宣伝を請け負うようになった。短い法被に大きな笠脚袢にわらじという出立で、竹製の鳴物、拍子木を用い、「今日は松屋町の何々亭…」と呼び込みを行ったとされる。飴勝の仕事を引き継いだ勇亀(いさみかめ)が、明治10年代に芝居の口上である「東西、東西(とざい、とうざい)」を用いて寄席の宣伝を行っていたことから、1880 - 81年頃に東西屋と呼ばれるようになった。やがて、東西屋は街頭宣伝業の一般名詞へと転じた。勇亀のほかには、豆友という東西屋が知られていた。豆友は1891年に他界、弟が跡を継いで二代目を名乗り、初代の長男と次女を伴って活動を始めるが、1893年に感電死した。 紅かんは、安政期から明治初期にかけて活動していた大道芸人で、仁輪加の百眼を付け、大黒傘を背負い、「七輪の金網を打鉦に小太鼓を腰に柳のどう(胴)に竹の棹に天神はお玉という三味線」で演奏し、下町で人気を得ていたとされる。大正期にも通称、紅屋の勘ちゃんという男がいて、両手に三味線、腰に小さな太鼓をくくりつけて、バチで三味線と太鼓を一緒に鳴らして街を歩いたことがヒントとなってチンドンが作られたという。「紅かん」と「紅勘」の繋がりは明らかではないが、演奏芸の様態としては、チンドンの原型と言えるだろう。
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