信長の死・柴田勝家への協力とは? わかりやすく解説

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信長の死・柴田勝家への協力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「信長の死・柴田勝家への協力」の解説

6月2日信長が京の本能寺において、息子信忠とともに明智光秀討たれた(本能寺の変)。秀吉救援のため、信長自らが支援のために備中に赴こうと、本能寺滞在していた矢先出来事であった。この情報得た秀吉は、信長横死秘したまま、毛利氏講和行った6月4日備中高松城講和により開城し、城主清水宗治らは切腹した。秀吉その日のうちに撤退し毛利方が本能寺の変報を入手したのはその翌日5日であった6月9日信長の死を知った義昭は隆景に対し帰京するために備前播磨出兵するように命じたが、輝元は講和遵守して動かなかった。毛利氏上方情報収集行ったが、領国動揺鎮めることで精いっぱいであり、進攻する余裕はなかった。 6月13日秀吉山崎の戦い光秀を破ると、輝元は秀吉戦勝を祝うため、安国寺恵瓊使者として派遣した9月26日義昭安国寺恵瓊対し羽柴秀吉自身帰洛斡旋させるように命じた秀吉もこれに承知意思示した10月15日秀吉大徳寺信長葬儀行い後継者としての地位確立した。そのため、秀吉柴田勝家覇権巡って火花を散らし始めると、輝元は双方から味方になるよう誘いかけられた。 11月義昭勝家味方し勝家もこれを承知した義昭また、勝家上杉景勝講和させ、協力させるため、11月21日景勝御内書下した天正11年1583年2月13日勝家北近江進出するための援助を、毛利氏求めたまた、同月には徳川家康義昭帰洛に関して、輝元に賛意表した3月14日勝家義昭擁立したうえで、毛利氏支援受けて秀吉挟撃ようとした。そのため、勝家義昭に輝元の出兵督促させた。 4月5日義昭は輝元と勝家対し勝家先鋒近江進出したことと知らせとともに、すぐに出兵するように命じた4月20日、元春と隆景が会見した結果毛利氏両者勝敗見てからと傍観することにし、義昭要請には応じないことにした。 4月21日秀吉賤ヶ岳の戦い勝家勝利し勝家自害追いやった。秀吉勝家最期を輝元に伝えとともに東国北条氏政北国の上景勝攻めると伝え、輝元に協力するように伝えた。すでに秀吉と輝元の間には及び難い力の差がついていたが、義昭勝家味方したため、秀吉敵に回すという結果招いた天正13年1585年1月、輝元が秀吉との国境画定に応じて正式に講和し、天正4年から続いた毛利氏織豊政権戦闘はようやく終結した京芸和睦)。

※この「信長の死・柴田勝家への協力」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「信長の死・柴田勝家への協力」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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