信長の時代
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永禄11年(1568年)9月、足利義昭を擁立した信長は上洛に成功し、信長の上洛に協力した久秀は、当初は信長の同盟者の立場にあった。10月2日には信長に対して人質と名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出した。久秀は幕府の有力な構成員となり、大和一国の支配を認められた。三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、足利義栄も上洛出来ず急死したため義昭が15代将軍となり、畿内は信長に平定された。この後も三好義継、松永父子は相伴衆や御供衆に任じられた義昭の「幕臣」としての京での活動が記録に残っている。 大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、信長が10月に家臣の佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていく。一段落した12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上した。永禄12年(1569年)も大和平定を継続し、対する順慶は没落を余儀無くされていく。またこの年の本圀寺の変時には岐阜に滞在しており、事件の際には信長と共に上洛し駆けつけている。 永禄13年1570年正月に、信長が義昭に五か条の条書を認めさせ、「義昭の命令は信長だけが承る」として、義昭幕府が、それまでの大名連合体制と久秀も含めた同盟者の立場から、一気に信長の単独連立体制と信長が上位の命令者へと変貌する。同時に、信長は主要大名・国人への触書を出すが、触書に家康や義継宛には殿は付けたが、嫡男信忠の義父の久秀には付けず、義継の宿老扱いに、地位低下させられた。 元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。また、同年11月から12月にかけて信長と三人衆の和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。以後も事実上の信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するが、次第に久秀と義昭は反目を深め、それと共に義昭を擁する信長との関係が悪化していく。 元亀2年(1571年)5月、久秀は畠山秋高の家臣で自らの指揮下にあった安見右近を奈良に招いて殺害すると、その本拠である交野城を攻めた(『多聞院日記』『二条宴乗記』)。これに呼応するように三好義継や三好三人衆までが畠山攻めを開始して、6月には連合して高屋城を攻めた(『尋憲記』)。義昭としては、久秀・義継・秋高はいずれも幕臣である以上、幕臣同士の争いを許容できず、和田惟政に秋高救援を命じた。更に6月に入ると、義昭は養女を筒井順慶に嫁がせて自派に引き込もうとし、これに伴って久秀は義昭・信長に反旗を翻すが、8月4日の辰市城の戦いで筒井方に大敗し、竹内秀勝らの有力な家臣を失っている。しかし、その後三好三人衆と連携していた阿波三好家(三好長治・十河存保・篠原長房)とも和睦をして8月28日の白井河原の戦いで和田惟政を討ち取ることに成功した。なお、久野雅司は久秀と義昭の対立のもう一つの理由として、久秀が大和支配の安定化のために幕府の直轄地である山城南部への進出を図り、それが義昭との境界紛争を招いた結果として、義昭は久秀を牽制するために順慶と接近したとみている。実際にこの5月より山城普賢寺城を巡って久秀と三淵藤英・細川藤孝兄弟が交戦をし、10月には普賢寺城を抑えた久秀が更に槙島城へと攻め込んでいる。当時、義昭と信長の協力関係は続いており、久秀は信長と敵対したのではなく、義昭と対立した結果としてその後見である信長とも対立したと見るのが適切である。また、元亀2年(1571年)の時点で甲斐国の武田信玄から書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。 元亀3年(1572年)に入ると、久秀と義継は細川昭元・畠山秋高・遊佐信教・伊丹親興・和田惟長(惟政の子)らを味方に引き込もうとするが、義昭の働きかけによって誘いには応じず、わずかに三好為三を引き込めたに過ぎなかった。しかし、三好勢力の再結集には成功しつつあった久秀らは朝倉義景や武田信玄、本願寺などの反信長勢力と接近し、また義昭と信長の関係悪化に伴って、敵対対象は信長へと移行していく(信長包囲網)。そして、翌元亀4年(1573年、天正に改元)2月、義昭が信長と決別して挙兵をすると、義昭と久秀・義継は正式に和睦を結んだ。 しかし、元亀4年4月、包囲網の有力な一角である信玄が西上作戦中に病死し、武田氏は撤兵。7月に足利義昭が信長に敗れ追放(槇島城の戦い)。11月に三好義継も信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死(若江城の戦い)。12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏した。三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解した。翌天正2年(1574年)1月には岐阜に来て信長に謁見、筒井順慶も信長に服属している。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。
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信長の時代
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永禄11年(1568年)2月、兄・信長の命で北伊勢を支配する長野工藤氏(長野氏)に養子入りして伊勢国上野城を居城としたが、後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復した。永禄12年(1569年)10月、伊勢大河内城が落城して北畠家が信長に臣従すると、信包は信長より伊勢安濃津城主に任命された。 その後は信長に従って各地を転戦する。北近江小谷城で信長が義弟の浅井長政を滅亡させたとき、その正室であった妹の市とその娘たちである茶々・初・江を信包が保護したとされてきた。しかし近年の研究によると、当初お市の方と三姉妹を保護したのは信包ではなく、信長、信包、お市たちの叔父である織田信次であることが明らかとなっている(『溪心院文』)。天正3年(1575年)の越前一向一揆鎮圧、天正5年(1577年)の雑賀党攻め(紀州征伐)にも参加し、織田一族の重鎮として厚遇された。後に信長の長男・信忠の補佐を任されている。長男・信重の正室に元尾張守護・斯波義銀の娘を定め、織田家と斯波家の橋渡し役も果たした。
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