信長の時代とは? わかりやすく解説

信長の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:16 UTC 版)

松永久秀」の記事における「信長の時代」の解説

永禄11年1568年9月足利義昭擁立した信長上洛成功し信長の上洛に協力した久秀は、当初信長同盟者立場にあった10月2日には信長に対して人質名物といわれる茶器九十九髪茄子」を差し出した。久秀は幕府有力な構成員となり、大和一国支配認められた。三人衆信長抵抗して9月畿内から駆逐され、足利義栄上洛出来ず急死したため義昭15代将軍となり、畿内信長平定された。この後三好義継松永父子相伴衆御供衆任じられ義昭の「幕臣としての京での活動記録残っている。 大和の有力国人はほとんどが筒井順慶属していたが、信長10月家臣佐久間信盛細川藤孝和田惟政ら2軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢協力して次第大和平定進めていく。一段落した12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物献上した永禄12年1569年)も大和平定継続し対す順慶没落余儀無くされていく。またこの年本圀寺の変時には岐阜滞在しており、事件の際には信長と共に上洛駆けつけている。 永禄13年1570年正月に、信長義昭に五か条の条書認めさせ、「義昭命令信長だけが承る」として、義昭幕府が、それまで大名連合体制と久秀も含めた同盟者立場から、一気信長単独連立体制信長上位命令者へと変貌する。同時に信長は主要大名国人への触書を出すが、触書家康や義継宛には殿は付けたが、嫡男信忠義父の久秀には付けず、義継の宿老扱いに、地位低下させられた。 元亀元年1570年)、信長朝倉義景討伐に義継や池田勝正と共に参加し信長妹婿浅井長政謀反撤退余儀なくされると、近江国朽木谷領主朽木元綱説得して味方にし、信長窮地救っている(金ヶ崎の戦い)。また、同年11月から12月にかけて信長三人衆和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長養女とした上で人質差し出して和睦まとめている。以後事実上信長の家臣として石山本願寺攻め参加するが、次第に久秀と義昭反目深め、それと共に義昭擁する信長との関係が悪化していく。 元亀2年1571年5月、久秀は畠山秋高家臣で自らの指揮にあった安見右近奈良招いて殺害すると、その本拠である交野城攻めた(『多聞院日記』『二条宴乗記』)。これに呼応するように三好義継三好三人衆までが畠山攻め開始して6月には連合して高屋城攻めた(『尋憲記』)。義昭としては、久秀・義継・秋高はいずれ幕臣である以上、幕臣同士争い許容できず、和田惟政秋高救援命じた。更に6月に入ると、義昭養女筒井順慶に嫁がせて自派引き込もうとし、これに伴って久秀は義昭信長反旗を翻すが、8月4日辰市城戦いで筒井方に大敗し竹内秀勝らの有力な家臣失っている。しかし、その後三好三人衆連携していた阿波三好家三好長治十河存保篠原長房)とも和睦をして8月28日白井河原の戦い和田惟政討ち取ることに成功した。なお、久野雅司は久秀と義昭対立もう一つ理由として、久秀が大和支配安定化のために幕府直轄地である山城南部への進出図り、それが義昭との境界紛争招いた結果として義昭は久秀を牽制するために順慶接近したとみている。実際にこの5月より山城普賢寺城を巡って久秀と三淵藤英細川藤孝兄弟交戦をし、10月には普賢寺城を抑えた久秀が更に槙島城へと攻め込んでいる。当時義昭信長協力関係続いており、久秀は信長敵対したではなく義昭対立した結果としてその後見である信長とも対立したと見るのが適切である。また、元亀2年1571年)の時点甲斐国武田信玄から書状送られており、この時点で既に信長対す不穏な動き見て取れる元亀3年1572年)に入ると、久秀と義継は細川昭元畠山秋高遊佐信教伊丹親興和田惟長惟政の子)らを味方引き込もうとするが、義昭働きかけによって誘いには応じず、わずかに三好為三引き込めたに過ぎなかった。しかし、三好勢力の再結集には成功しつつあった久秀らは朝倉義景武田信玄本願寺などの反信長勢力接近し、また義昭信長関係悪化伴って敵対対象信長へと移行していく(信長包囲網)。そして、翌元亀4年1573年天正改元2月義昭信長決別して挙兵をすると、義昭と久秀・義継は正式に和睦結んだ。 しかし、元亀4年4月包囲網有力な一角である信玄西上作戦中に病死し武田氏撤兵7月足利義昭信長敗れ追放槇島城の戦い)。11月三好義継信長部将佐久間信盛攻められ敗死若江城の戦い)。12月末に余勢駆った織田軍に多聞山城包囲され多聞山城信長差し出し降伏した三人衆信長敗れ壊滅し包囲網瓦解した。翌天正2年1574年1月には岐阜来て信長謁見筒井順慶信長服属している。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。

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信長の時代

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織田信包」の記事における「信長の時代」の解説

永禄11年1568年2月、兄・信長の命で北伊勢支配する長野工藤氏長野氏)に養子入りして伊勢国上野城居城としたが、後に信長命令によってこの養子縁組解消し織田家復した永禄12年1569年10月伊勢大河内城落城して北畠家信長臣従すると、信包は信長より伊勢安濃津城主に任命された。 その後信長に従って各地転戦する。北近江小谷城信長義弟浅井長政滅亡させたとき、その正室であった妹の市とその娘たちである茶々初・江を信包が保護したとされてきた。しかし近年の研究によると、当初お市の方三姉妹保護したのは信包ではなく信長、信包、お市たちの叔父である織田信次であることが明らかとなっている(『溪心院文』)。天正3年1575年)の越前一向一揆鎮圧天正5年1577年)の雑賀党攻め紀州征伐)にも参加し織田一族重鎮として厚遇された。後に信長長男信忠補佐任されている。長男・信重の正室に元尾張守護斯波義銀の娘を定め織田家斯波家橋渡し役も果たした

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