信長の政権構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)
信長は、尾張の一部を支配する領主権力として出発しており、東国の他の戦国大名と似たような方法で統治を行っていた。しかし、永禄11年9月に上洛し、足利義昭を推戴したことで、信長は室町幕府の権力機構と並立する形で、その権限を強化していくこととなる。そして、最終的には室町幕府とは異なる独自の中央政権を築くこととなる。 上洛以前、信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であることから、「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に理解されることが多いが、その真意は、軍事力ではなく、中国の史書からの引用で「七徳の武」という為政者の徳を説く内容の「武」であったと解釈されている。 従来、「天下布武」とは天下統一、全国制覇と同意であると解釈され、信長は「天下布武」達成のために領土拡張戦争を行ったとされてきた。しかし、近年の歴史学では、戦国時代の「天下」とは、室町幕府の将軍および幕府政治のことを指し、地域を意味する場合は、京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを指すと考えられている。そして、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の統治を確立させることであり、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。 そして、信長がその支配を正当化する論理として用いたのも、「天下」の語である。信長は、室町将軍から「天下」を委任されたという立場を標榜した。歴史学者の神田千里は、このことから、信長は戦国期幕府将軍の権限を継承したと論じている。神田によれば、比叡山の焼き討ちは室町幕府第6代将軍・足利義教も行ったもので、寺社本所領に対する将軍権力の介入と位置づけられる。また、諸大名に対する和睦命令や京都支配も従来将軍によって行われていたもので、信長は「天下」を委任されることで、これらの行為を行う権限を手にしたのである。 幕府において、信長は朱印状を発給して政策を実行したが、この朱印状は、信長以前の戦国期室町幕府の守護遵行状・副状にあたるものであり、特殊な機能を持つものではないと考えられている。信長はあくまで室町幕府の存在を前提とした権力を築いており、当初の織田政権は幕府との「連合政権(二重政権)」であったと言える。 しかし、元亀4年(1573年)2月に足利義昭が信長を裏切ったため、やむを得ず、将軍不在のまま、信長は中央政権を維持しなければならなくなる。とはいえ、義昭追放後も、義昭が放棄した「天下」を信長が代わって取り仕切るというスタンスをとり、「天下」を委任されたという信長の立場は変わらなかった。そして、信長は、将軍に代わって「天下」を差配する「天下人」となった。金子拓によれば、信長は、「天下」の平和と秩序が保たれた状態(「天下静謐」)を維持することを目標としていた。この天下静謐の維持の障害となる敵対勢力の排除の結果として、信長は勢力を拡大したが、あくまで目的は天下静謐の維持であって、日本全国の征服といった構想はなかったという。そして、信長は「天下」の下に各地の戦国大名や国衆の自治を認めつつ、彼らを織田政権に従属させることで日本国内の平和の実現を進めていった。 それに対して、義昭追放後に信長が右大将に任官し織田政権成立と天下人に公認され天下人意識の形成と上様への尊称変更とともに、天下の概念が拡大・変容し、「自身と天下の一体化」を主張し、やがて神田千里の畿内布武の天下規定を地理的に超えて「列島日本」の意味となったという説もある。このことにより、各地の国人領主にも「天下一統」へ信長に従うように柴田勝家などの方面軍司令官が要求しており、全国にわたる緩やかな大名統合を目指して統一戦争へと突き進んだとする。後の豊臣政権の前段となる統一政権の原型となる政権構想を打ち出したとの説がある。
※この「信長の政権構想」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「信長の政権構想」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。
- 信長の政権構想のページへのリンク