美濃斎藤氏と足利義昭とは? わかりやすく解説

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美濃斎藤氏と足利義昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「美濃斎藤氏と足利義昭」の解説

斎藤道三亡き後信長斎藤氏一色氏)との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦い前後して両者攻防一進一退様相呈していた。しかし、永禄4年1561年)に斎藤義龍急死し嫡男斎藤龍興後を継ぐと、信長美濃国出兵勝利する森部の戦い)。同じ頃には北近江浅井長政同盟を結び、斎藤氏への牽制強化している。その際信長は妹・お市輿入れさせた。 一方中央では、永禄8年1565年5月、かねて京を中心に畿内権勢誇っていた三好氏三好義継三好三人衆松永久通らが、対立深めていた将軍足利義輝殺害した永禄の変)。義輝の弟の足利義昭一乗院覚慶足利義秋)は、松永久秀保護得ており、殺害免れた義昭大和国現在の奈良県)から脱出し近江国和田、後に同国矢島拠点として諸大名上洛への協力求めた。 これを受けて信長同年12月には細川藤孝書状送り義昭上洛協力する旨を約束した。同じ年には、至治世に現れる霊獣「麒麟」意味する「麟」字型の花押使い始めている。また、義昭上洛障害排除するため、信長美濃斎藤氏との停戦実現させた。こうして、信長義昭供奉として上洛する作戦永禄9年8月には実行される予定であった。 ところが、永禄9年1566年8月信長領国秩序の維持優先して美濃斎藤氏との戦闘再開する結果義昭矢島から若狭国まで撤退余儀なくされ、信長また、8月河野島の戦い大敗喫してしまう。「天下嘲弄」を受ける屈辱味わった信長は、名誉回復のため、美濃斎藤氏脅威排除し義昭の上洛を実現させることを目指なければならなくなる。 そして、永禄9年1566年)、信長美濃国有力国人衆である佐藤忠能加治田衆味方にして中濃諸城手に入れ堂洞合戦関・加治田合戦中濃攻略戦)、義弟斎藤利治佐藤忠能養子として加治田城主とする。さらに西美濃三人衆稲葉良通氏家直元安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年1567年)、斎藤龍興伊勢国長島敗走させ、美濃国平定進めた稲葉山城の戦い)。このとき、井ノ口岐阜改称した(『信長公記』) 同年11月印文「天下布武」朱印信長使用しはじめている。この印判の「天下の意味は、日本全国を指すものではなく五畿内意味する考えられており、室町幕府再興意志込めたものであった(→#信長の政権構想)。11月9日には、正親町天皇信長を「古今無双名将」と褒めつつ、御料所回復誠仁親王元服費用拠出求めたが、信長丁重にまずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答したのみだった。

※この「美濃斎藤氏と足利義昭」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「美濃斎藤氏と足利義昭」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。

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