美濃書院紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/30 08:19 UTC 版)
『和漢三才図会』には、障子の項で、「濃州寺尾より出るものもっとも佳し。故に呼びて美濃紙と称す。以て書籍を写し 書翰を包み、障子および灯籠を張るのに 之にまさるものなし。」とある。濃州寺尾とは、現在の岐阜県武儀郡武芸川町寺尾である。 『新選紙鑑(かみかがみ)』には幕府ご用の障子紙、すなわち書院紙の漉工として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の4人の名をあげている。このほかにも濃州牧谷、洞戸、岩佐、谷口のものも良品としている。美濃書院紙という名は、書院造とともに発展し、明障子に最もふさわしい紙として定着した。 明治初期の『岐阜県史稿』によると、二つ折美濃、三つ折美濃という紙があり、明治九年(1876年)の『米国博覧会(フィラデルフィア万国博覧会)報告書』には、「二ツ折ハ障子二格間(格子間)ヲ貼るニ便シ、三ツ折ハ三格間ヲ併セテ貼ルの料トス。」とある。 書院紙は、障子の格子幅に併せて漉かれたが、障子の格子の幅は各地域でまちまちで規格が統一されていなかつた。たとえば、美濃書院紙の場合、尾張・美濃用は縦寸法が九寸三分、三河用は八寸三分、伊勢用は八寸二分であった。此の各地の格子の幅のまちまちの伝統は、今日でも受け継がれている。
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