美濃斎藤氏家臣とは? わかりやすく解説

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美濃斎藤氏家臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/18 03:38 UTC 版)

遠藤慶隆」の記事における「美濃斎藤氏家臣」の解説

遠藤盛数長男として木越城に生まれる。美濃遠藤氏千葉氏一族である東氏庶流であるが、慶隆の父盛数は、舅にあたる宗家当主東常慶倒して東氏滅ぼし八幡城となった。盛数は美濃戦国大名斎藤氏恭順し、斎藤義龍斎藤龍興の下で美濃侵攻した尾張国織田信長と戦うが、永禄5年1562年)に死去し、慶隆は13歳家督を継ぐことになった幼少当主案じた慶隆の老臣達は、盛数の未亡人(慶隆の母)を斎藤氏重臣関城主の長井道利再婚させ、道利が慶隆の後見人となったその後、慶隆はやはり斎藤氏重臣北方城主である安藤守就の娘を妻としている。 永禄7年1564年)、慶隆は弟慶胤と共に井ノ口(現岐阜市)の長井邸に居住していたが、竹中重治稲葉山城奪取したため、山県郡深瀬郷に避難した。その機に乗じ木越城(現郡上市大和町)主の遠藤胤俊(慶隆の従兄弟)が八幡城奪取し、慶隆兄弟暗殺企てたが、慶隆は粥川甚右衛門餌取六右衛門救出されて、苅安鶴尾山城(現郡上市美並町)に入った。翌永禄8年1564年)に道利の援軍を得ると、胤俊が和睦申し出て、慶隆は八幡城返還され城主復帰した永禄10年1567年9月稲葉山城落ち斎藤氏滅亡すると、郡上では鷲見弥平治と別府四郎謀反し、市島最勝寺に兵を集めて八幡城落とそうとしたが、事前に察知した慶隆はこれを攻め首謀者飛騨国敗走した同年同月ごろと見られるが、慶隆は信長属し郡上郡内の本領安堵されている。なお、長井道利稲葉山城落城の際に戦死したため、その妻だった慶隆の母は教如帰依し、照用院釈尼友順の法名得て郡上戸谷草庵営み前夫盛数の菩提弔ったという。

※この「美濃斎藤氏家臣」の解説は、「遠藤慶隆」の解説の一部です。
「美濃斎藤氏家臣」を含む「遠藤慶隆」の記事については、「遠藤慶隆」の概要を参照ください。

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