信長の美濃侵攻とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 04:07 UTC 版)
尾張の織田信長の美濃攻略を始め、永禄8年夏に木下秀吉が鵜沼城へ攻め寄せると、道利は兵300で秀吉を攻撃したが、木下秀長に側面を突かれて秀吉を逃した。同年9月には、斎藤方の堂洞城主岸信周と共に、織田側に寝返った佐藤忠能の居城加治田城奪取に乗り出すが、堂洞合戦で信周が討ち死にしたため、居城の関城に籠城するも、織田方の斎藤利治(長龍)によって攻め落とされた。 その後も継子の遠藤慶隆らと共に信長に抵抗するが、永禄10年(1567年)、稲葉山城が陥落したため、龍興と共に長良川を降り伊勢国に逃れた。 元亀元年(1570年)には、長島一向一揆に加勢して敵対を続けた。その後、信長と不和となっていた15代将軍足利義昭に仕えた。 元亀2年(1571年)8月28日に摂津白井河原の戦いで討死した。一説には、天正元年(1573年)に越前刀根山で主君龍興と共に討死にした(刀根坂の戦い)、信長の稲葉山城攻めの時点で逐電または死去したともいわれる[要出典]。 その後、子の道勝、頼次、時利らは姓を井上と改め、織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えた。
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