『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰とは? わかりやすく解説

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『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:09 UTC 版)

徳富蘇峰」の記事における「『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰」の解説

1945年昭和20年9月、自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。戦前日本における最大オピニオンリーダーであった蘇峰は、同年12月2日連合国軍最高司令官総司令部逮捕命令対象者リスト名を連ねたA級戦犯容疑第三次逮捕者59名中の1人)が、老齢三叉神経痛のために自宅拘禁とされ、後に不起訴処分下された公職追放処分受けたため、1946年昭和21年2月23日貴族院勅選議員などの公職辞して静岡県熱海市蟄居した。また同年には戦犯容疑かけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして文化勲章返上した1948年昭和23年12月7日、妻の静子死去熱海蟄居となったこのころ蘇峰は、さかんに達磨画を描いている。 蘇峰終戦後日記書き続けており、その中で昭和天皇について天皇としての修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍顔色のみを見ず今少し国民心意気を」などと述べている。 1951年昭和26年2月終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆再開し1952年昭和27年4月20日、ついに全巻完結した。『近世日本国民史』は、史料駆使し織田信長の時代から西南戦争までを記述した100巻の膨大な史書であり、1918年大正7年)の寄稿開始より34年歳月費やされている。高齢のため、98以降口述筆記された。平泉澄校訂により時事通信社刊行されたが、100巻のうち24巻生前発刊至らず全巻刊行没後1963年昭和38年)、孫の徳富敬太の手によってなされた1952年昭和27年9月勝利者悲哀』『読書九十年』を出版1954年昭和29年3月から1956年昭和31年6月まで『読売新聞紙上明治・大正・昭和人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者悲哀』では、近代アメリカ外交批判する同時に日本人にも反省求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰死後、『三代人物史』と改題されたうえで刊行された。 1954年昭和29年)には山中湖畔の双宜荘を同志社寄贈し翌年11月行われた同志社創立80周年記念式にも老躯押して出席するなど、同志社との関わり生涯にわたって続いた1957年昭和32年11月2日熱海の晩晴草堂死去享年95(満94歳没)。絶筆の銘は「一片丹心渾べて吾を忘る」。葬儀東京霊南坂教会おこなわれた墓所東京都立多磨霊園にある。

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