『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰
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「徳富蘇峰」の記事における「『近世日本国民史』の完成と晩年の蘇峰」の解説
1945年(昭和20年)9月、自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、同年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部の逮捕命令対象者のリストに名を連ねた(A級戦犯容疑の第三次逮捕者59名中の1人)が、老齢と三叉神経痛のために自宅拘禁とされ、後に不起訴処分が下された。公職追放処分を受けたため、1946年(昭和21年)2月23日に貴族院勅選議員などの公職を辞して静岡県熱海市に蟄居した。また同年には戦犯容疑をかけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして文化勲章を返上した。1948年(昭和23年)12月7日、妻の静子が死去。熱海に蟄居となったこのころの蘇峰は、さかんに達磨画を描いている。 蘇峰は終戦後も日記を書き続けており、その中で、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている。 1951年(昭和26年)2月、終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、1952年(昭和27年)4月20日、ついに全巻完結した。『近世日本国民史』は、史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書であり、1918年(大正7年)の寄稿開始より34年の歳月が費やされている。高齢のため、98巻以降は口述筆記された。平泉澄の校訂により時事通信社で刊行されたが、100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の1963年(昭和38年)、孫の徳富敬太郎の手によってなされた。 1952年(昭和27年)9月『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版、1954年(昭和29年)3月から1956年(昭和31年)6月まで『読売新聞』紙上に明治・大正・昭和の人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者の悲哀』では、近代アメリカ外交を批判すると同時に日本人にも反省を求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰の死後、『三代人物史』と改題されたうえで刊行された。 1954年(昭和29年)には山中湖畔の双宜荘を同志社に寄贈し、翌年11月に行われた同志社創立80周年記念式にも老躯を押して出席するなど、同志社との関わりは生涯にわたって続いた。 1957年(昭和32年)11月2日、熱海の晩晴草堂で死去。享年95(満94歳没)。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。葬儀は東京の霊南坂教会でおこなわれた。墓所は東京都立多磨霊園にある。
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