会議決定の破棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 05:19 UTC 版)
10月11日から15日、秀吉は信長の葬儀を、羽柴秀勝を立てて喪主として、大徳寺で挙行し、葬列では秀吉が信長の位牌を持ち、信長の後継者として大きく世間の耳目を集めた。主筋で、岐阜城で三法師を抱えて離さない信孝の側に対抗するため、11月1日までに、秀吉は信孝と勝家の謀反を理由に、清洲会議の決定を破棄し、織田信雄を織田家の家督に据えると勝家を除く三宿老の丹羽長秀と池田恒興との三者の合議で決めた。この決定は、清洲会議の体制に含まれる家康の承諾も必要で、家康は同年12月22日付で秀吉に信雄の家督相続に祝意を表す形で承認している。その後、秀吉と勝家は対立が深まっていき、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながり、秀吉の天下取りとなる。
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