会議崩壊の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:34 UTC 版)
薩摩藩の西郷、大久保らは四侯会議の失敗を受け、戦略の変更を余儀なくされる。慶応3年(1867年)5月21日、中岡慎太郎の仲介によって、西郷、小松帯刀らは土佐藩の討幕派の重鎮・乾退助、谷干城らと薩土討幕の密約を締結し、5月25日、薩摩藩邸で重臣会議が開かれ、武力討幕に舵を切ることが確認された。すなわち、もはや列侯会議で幕府(および慶喜)を牽制するのは不可能であるとして、島津斉彬以来維持してきた公議路線を放棄し、武力倒幕路線を指向することとなる。軍役奉行・伊地知正治はこの倒幕の方針を久光に伝え、これに久光も半ば同意した。(久光は武力による倒幕は諸外国の介入を招く恐れがあると懸念をもっていた)薩摩藩は秘かに岩倉具視と結び、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之らの協力を得て討幕の密勅降命に向け、工作することとなる。 一方四侯会議の途中から欠席するなど薩摩と距離を置き始めた容堂は、むしろこの後徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めていく。同年6月坂本龍馬から大政奉還を含む船中八策を聞いた土佐藩の後藤象二郎は、容堂にこれを進言する。徳川家存続の妙策と考えた容堂は、慶喜に大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の討幕の密勅工作の機先を制し、10月14日大政奉還が実行されることとなる。
※この「会議崩壊の影響」の解説は、「四侯会議」の解説の一部です。
「会議崩壊の影響」を含む「四侯会議」の記事については、「四侯会議」の概要を参照ください。
- 会議崩壊の影響のページへのリンク