中央政権へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:01 UTC 版)
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が明智光秀によって討たれた(本能寺の変)。このとき、中国方面総司令官として備中にあった信長の家臣羽柴秀吉は、直ちに毛利輝元と講和して軍を東に返して、明智光秀を討った(山崎の戦い)。主君の仇・光秀を討った功績によって発言力を増した。 清洲会議において信長の後継者が話し合われると、柴田勝家が織田信孝(信長の三男)を推薦したのに対し、まだ幼児だった三法師(当時の織田家当主・織田信忠の嫡男、信長の孫)を擁立し、柴田らと対立。会議の結果、三法師を後継者とし、信孝がその後見役につくということで織田政権が継承されることとなった。 ここから秀吉は信長の息子たちを排除していく。まず柴田勝家の息子・勝豊を攻めて降伏させ、信孝を孤立させ、彼から三法師を奪う。これで当主の代理という立場を得た秀吉は、1583年、柴田勝家と織田信孝を賤ヶ岳の戦いにおいて滅ぼし、他の重臣の滝川一益を降した。そして前田利家や金森長近らを味方に引き入れる。 これに不満を持った織田信雄(信長の次男)が、天正12年(1584年)に信長の盟友であった徳川家康と結んで、反秀吉の兵を挙げる。兵力的には秀吉軍が優勢であったが、家康の戦術の前に秀吉軍は小牧・長久手の戦いで局地的に敗れた。しかしその後、織田信雄は秀吉の兵力に圧迫され、家康に相談なく秀吉と単独講和してしまう。これにより家康も秀吉と戦うための大義名分を失い、ひとまず秀吉と和睦した。 天正13年(1585年)、秀吉は前年・前々年の戦いで常に自らの背後を脅かした紀伊の諸勢力(紀州攻め)、四国の長宗我部元親(四国平定)を相次いで攻略した。 同年7月、秀吉は二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分していた関白相論に介入して、正親町天皇に関白に任じられ、翌年には豊臣姓も下賜された。これは、秀吉が朝廷から天下の実力者として認められ、朝廷から政治を委任されたことを意味している。この時点で秀吉の権力は主家の織田家を越え、事実上の豊臣政権が誕生したと解釈される。
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