中央政府の対応
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「インドネシア共和国革命政府」の記事における「中央政府の対応」の解説
こうした地方の決起に対し、当初のスカルノ大統領は外交を優先していた。ジュアンダ(インドネシア語版)首相は国民評議会を1957年9月10日からジャカルタで開催することを提案し、一方で陸軍参謀長のアブドゥル・ハリス・ナスティオン大将は地方問題に軍事力を用いることを提案した。彼の主張は通らず、スカルノは国民評議会の開催に賛成した。この意向を受け、ナスティオンは国民評議会が開かれても自分の地位が脅かされることのないよう交渉を開始した。結果、参謀本部の許可なしに軍司令官たちが会合を開くことが禁じられた。 参謀本部の禁令により、地方の部隊指揮官たちはむしろ計画外の会議を開くこととなった。1957年9月7日から翌8日にかけて、国民評議会が開かれる直前、地方の軍事指導者たちはパレンバンで最初の会議をもった。彼らはそこで「パレンバン憲章」を採択し、まず中央政府に従来の「スカルノ=ハッタ体制」を再構築することを要求した。西部スマトラのブキティンギを故郷とするモハマッド・ハッタは独立運動の時期から続くスカルノの同志で、顕職を歴任し初代副大統領を長く務めていたが、路線対立が表面化し1956年12月1日に辞任していた。スカルノとハッタの決別は民族協調と国家統一の理想が崩壊した象徴ともいわれ、地方の指導者たちにはハッタ待望論が存在したようである。 パレンバン憲章での要求は多岐にわたり、その他にはナスティオンおよびその属僚たちによる参謀本部の解散、上院の設置、地方自治、共産主義の禁止などがもりこまれた。しかし国民評議会で軍事指導者たちによって発表されたこれらの要求は、完全には受け入れられなかった。ナスティオンは内閣とスカルノ大統領に、軍事指導者たちの隠れた関心について説得した。
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