中央政府の分裂とモブツの最初のクーデター
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「コンゴ動乱」の記事における「中央政府の分裂とモブツの最初のクーデター」の解説
ルムンバがソ連に支援を要請した結果、政府内は分裂してしまい、西側諸国が彼を権力から取り除くように圧力を強めることにも繋がった。加えて、モイーズ・チョンベとアルベール・カロンジの両方がカサブブがルムンバの中央集権主義に反対する穏健主義者かつ連邦主義者であると考えて、離脱問題を解決するために彼に対話を呼び掛けた。その一方で、モブツは他国からの援助を獲得し、特定の部隊員や将校を昇級させることで彼らからの忠誠を確保して国民軍の支配権を掌握した。 アメリカに促される形でカサブブは1960年9月5日に南カサイにおける虐殺を口実として、一方的にルムンバの首相職解任を全国ラジオを通じて発表した。ハマーショルドの側近でアメリカ人のONUC臨時代表アンドリュー・コーディア(英語版)は自分に与えられた権限を活用し、ニュースに反応したMNC-Lが団結して行動を起こすことを阻止するためにラジオ局の封鎖を指揮した。両議院はルムンバを支持し、カサブブを非難した。議会から信任を得たルムンバは対抗してカサブブを大統領職から解任しようとしたが、憲政上の危機(英語版)を誘発することになることになるこの行為については反対され、無効となった。9月14日にはジョゼフ=デジレ・モブツが混迷した政治状況の打開を表向きの理由として無血クーデターを実行した。カサブブがルムンバの後任として任命したイレオの政府とそれに対抗するルムンバの政府、この両政府の無効化を宣言し、その代わりにジャスティン・ボンボコ(英語版)率いる大学卒業者と現役大学生からなる「委員会内閣」を設立して政治権力も掌握した。ソ連の軍事顧問は国外退去を命じられた。混乱の収拾を最優先に考えるカサブブはモブツと手を組み、官邸内に軟禁されてONUCのガーナ人部隊らによって警護される状態となったルムンバはモブツと委員会内閣を激しく糾弾して敵対した。1961年2月にカサブブはモブツによって大統領に再任命された。クーデターを起こして以降のモブツは影の実力者としてコンゴの政治に多大の影響力を及ぼすことが出来るようになった。 カサブブの復職以降、コンゴの各勢力間で和解に向けた動きが進展した。チョンベはコンゴの国家連合を形成してカタンガの分離状態を終結させるための交渉を開始した。歩み寄りの合意に達したものの、カサブブとチョンベがお互いに個人的な敵意を抱いたために交渉が決裂し、この合意が無効になってしまった。1961年7月の和解交渉が失敗した後、ルムンバ支持者や南カサイからも含めて様々な勢力を結集したシリル・アドゥラを首班とする新政府が形成されたが、カタンガ国政府との和解はもたらさなかった。 スタンリーヴィルに逃亡したアントワーヌ・ギゼンガ率いるMNC-Lの反乱軍メンバーは1960年11月にレオポルドヴィルの中央政府に対抗して反乱軍政府を形成した。ギゼンガ政府はソ連や中国を含めていくつかの国々にコンゴの公式な政府として承認され、中央政府の7,000人に対しておよそ5,500人の兵士を動員することが出来た。その正当性を国連から拒否されるという難局に直面したギゼンガ政府は1962年1月、代表者のギゼンガが逮捕された後に崩壊した。
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