織田家追放と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 07:07 UTC 版)
天正8年(1580年)8月、突如、信長に野心ありとの嫌疑をかけられ、林秀貞、丹羽氏勝と共に粛正の対象となり追放される。この要因は美濃・尾張を拠点とする信長にとって、かつての仇敵であり、美濃に勢力を張ってきた守就の存在が穏やかでなかったからであるとも推測される。『信長公記』には林、丹羽を含めた三名の追放の理由として「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり(先年、信長公が苦闘を重ねていた折、それに乗じて野心を含んだためであった)」とのみある。 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀により討たれると、守就は子・定治と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし当時の北方城の領主・稲葉一鉄(良通)に攻められ敗北。6月8日に一族共に自害し美濃安藤氏は滅亡する。享年は80とされる(『稲葉家譜』)が、正確な生年は不明。 なお、天正8年(1580年)8月に末弟・郷氏も又、放逐されて同10年(1582年)6月8日に兄共々誅伐されているが、当時幼かった子・可氏は後に母の弟にあたる山内一豊に近江長浜時代から仕え、姓を山内に変えながら明治時代まで続いた。
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