織田家領地再配分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 05:19 UTC 版)
領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。家臣団へは、勝家は越前国を安堵の上で、勝家の希望で秀吉の領地である長浜城と北近江3郡12万石の割譲が認められ、長浜城は養子の柴田勝豊に与えられた。長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の2郡を、恒興は摂津国から3郡を、それぞれ加増された[要出典]。新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、秀吉には河内国と山城国が増領され、丹波国も含めると28万石の加増になり、勝家と逆転した[要出典]。 また、神流川の戦いの後、北条氏政・上杉景勝、そして織田家の従属大名状態となっていた徳川家康が、織田家の支配が動揺している旧武田領国に侵攻した(天正壬午の乱)。このうち、徳川家康から羽柴秀吉ら織田家重臣に対して旧武田領国への進出の了承を求めてきていた。重臣たちは当初は旧武田領国の奪還を方針としていたが、家康の申し入れを受けて家康による旧武田領国の平定を容認することになった。ただし、これによって滝川一益をはじめとする今回の決定によって所領を失うことになる旧武田領国に与えられていた諸将への対応は決定されず、後日旧武田領国を家康に委ねたことを知った滝川一益から代わりの所領を要求されるが、重臣たちは会議で決定した所領配分のやり直しも出来ずに結論が先送りされ、一益の不満を強めていくことになる。また、信雄が支配することになった尾張国と信孝が支配することになった美濃国の国境についても両者の意見の対立があり(信孝は洪水による木曽川の流路変更を理由に国境線自体の変更を求めた)、信孝の意見を支持する秀吉と信雄の意見を支持する勝家が対立した(秀吉は信孝の意見を支持する代わりに三法師の安土移動を取引する算段であったという)。最終的に信雄の意見が会議の合意に基づいたものとして認められることになるが、これは信孝の不満を強めていく一因となった。
※この「織田家領地再配分」の解説は、「清洲会議」の解説の一部です。
「織田家領地再配分」を含む「清洲会議」の記事については、「清洲会議」の概要を参照ください。
- 織田家領地再配分のページへのリンク